第42話

「央華!!」


 怒号のような声と共に部屋の入り口の扉が開かれた音がした。

 間をおかずにリビングスペースに繋がる扉が開かれ、室内に飛び込んで来たのは見たことの無いほど焦燥した様子の悠人だ。私が会場を離れる直前には綺麗に整えられていた髪が少し崩れてしまっている。


「びっくりした…そんな大きい声出さなくても」


 宿泊の予定は無いが念のために、と取られていたセミスイートの広々とした客室。そのリビングスペースの奥に置かれた高そうなカウチに座っていたため、正面にある扉から飛び込んできた悠人は一瞬で私を視界に捉えた。


 如月が悠人を呼んでくると言ってこの部屋を出てから、まだ五分も経っていない。パーティ会場となっている大広間はホテルの二階にあり、ここは十五階だ。とんでもなく急いで来てくれたのは明らかだった。

 そんな悠人の後ろには、険しい表情の皐月さんと如月も居る。


 あの後、突然消えた私を探しに来た如月によってナイフを持った彼女は拘束された。そして私の左腕の傷に気づいて顔を青くした如月に即座にエレベーターに乗せられ、ここで手当てを受けることとなった。


 数分でホテルの診療所から医師が駆けつけ、診察を受けた後にテキパキと傷口は処理された。

 幸い大事には至っていないと言われたので、運は良かったのだろう。


 着物の方は改めて見ても左の二の腕部分がざっくりと無惨に切れてしまっており、その上私の血が滲んで酷い有り様だった。借り物をそんな風にしてしまったのが心苦しく、申し訳ない。後でしっかりと恭子さんに謝りに行くぞと声には出さずとも内心で確かに誓う。


「おまえ、怪我は」


 心配と不安の混ざった表情の悠人がまっすぐカウチまで向かってくる。座る私の目の前で立ち止まると、伸びてきた手に左の頬をそっと撫でられた。


「ん、大丈夫。血は出てたけど傷は深くないって言われた」


 着ているブラウスの袖を捲り上げて二の腕に巻かれた白い包帯を見せ、言葉だけでなく大丈夫のアピールをする。

 このブラウスは今履いているゆったりしたズボンと共に、如月がどこからか用意したものだ。医師の手当てを受け終わると「着替えた方がいいよ」とすぐに手渡された。


「消毒もちゃんとしたから、二週間もすれば綺麗に塞がるみたい。痕も残らないはずだって」


 そっと捲った袖を直しながら、少し離れた所に置かれた着物に目を向ける。


「借りた着物は血まみれのざっくりだけど…恭子さん許してくれるか、な……」


 言い終える前に視界が陰って、慣れた匂いに包まれた。しっかりと右腕は私の左腕の下を通って、閉じ込められたのは悠人の腕の中。

 首筋に押し付けるように顔をうずめる悠人には、この部屋に入ってからずっといつもの余裕が無いようだった。


「…悠人?どうしたの?」


 抱き締めてくれる手が微かに震えているのがわかって、まるで縋りつかれているみたいだなと思う。それでも込められている力は強く、骨が軋むのではと心配になるほどだ。


 けれどそんな風に抱きしめてきても、悠人は何も言わないままだった。


「悠人?」


 もう一度呼びかけながらそっと左腕を上げ、目の前の少し癖っ毛な黒髪に指を通す。そのまま優しく梳いてみたけれど、そんなに長くない髪はすぐに指から流れ落ちいってしまう。

 それでも悠人を宥めるように、何度かそれを繰り返した。


「……良かった…」


 しばらく経って、ようやく聞こえた言葉は掠れて微かに震えていた。心配させたことはわかっていたが、絞り出すように呟かれたその声に、改めて悠人の心配がどれほどのものだったのかを理解する。そして同時に、自分がどれだけ軽率だったのかを思い知った。


「…ごめんなさい。勝手に如月から離れたりして」


 小さくそう呟くと、応えるように回された腕の締め付けが一層強まる。


「ぅう………っ」


 苦しいし痛い。普段ならとっくに離してほしいと文句を言っている。けれど今、この時。こうなっているのは自分のせいだとわかっているから、痛くても苦しくても甘んじて受け入れることにした。


「だ、大丈夫?」


 心配して尋ねてくれたのは如月だった。動けないまま視線でそちらを確認すると、隣には少し呆れたような顔をした皐月さんも立っている。


 どうやら悠人と一緒にやってきてからずっと、部屋の半ばで立ち止まってこちらの様子を窺っていたらしい。


 二人の存在を改めて明確に認識すると、彼らの前で抱き締められている現状にどうしようもなく恥ずかしさがこみ上げてきたが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。


「だい、大丈夫…ちょっと二人にしてもらえると、痛っ、嬉しい…」


 容赦なく込められる力で軋む骨の痛みに堪え、なんとか笑顔を作って平気であることをアピールする。


「…わかった。悠人のこと頼むな」

「俺たちは会場に戻るから、用があったら電話して」


 どうやらこちらの意図をしっかりと察してくれたらしい兄弟は、それぞれに言葉を残してから部屋を後にした。

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