第39話
(いや…なんで挑発しちゃったんだろ)
わざわざ危険を増やすなんてただの馬鹿だ。今更後悔しても遅すぎるのだが、自分が冷静だという判断は今すぐ修正した方がいい。
そんな私の目の前に立つ彼女は、両手でナイフの柄をぎゅっと握り込んだ。両手が震えていて、切っ先は定まらない。
瞳は光を映しておらず、ただただ私を睨みつけている。
「…あ、ははっ……あはははははははっ」
途端に、何かが取り憑いたかのように笑い声をあげた。喉が引き攣れて、声が割れる。
「っ…何がおかしいの」
目の前で人が豹変するのは、さすがに恐怖を感じた。暑くはないのに首筋を汗が伝っていく。
おそらく私の表情にもそれが表れたのだろう。彼女はこちらを見据え、にっこりと笑った。
「悠人様は、悠人様はね?本当は貴女を邪魔だと思っているわ。婚約だって、私としたかったのよ。口に出しておっしゃることは無かったけれど、私にはわかるの。幼い頃からあの方だけを見てきたんだもの!悠人様が愛しているのは私!間違っても貴女みたいな、安っぽい女じゃないのよ!」
夢見る乙女のようにうっとりとしながら、次の瞬間には激情を爆発させる。その様子は誰がどう見ても異常だった。言っていることも行き過ぎた自己陶酔でしかない。十中八九、彼女が創り出した妄想だ。
何かに執着し、そこから離れられなくなった人間はこんなにも狂ってしまうのだろうか。そう思うと、途端に彼女が憐れに映った。
それにしても、安っぽい女は酷い。少し傷ついた。
「さよなら、仁科央華さん」
花でも眺めているかのような可憐な笑顔で、彼女はナイフを振りかざした。小さなナイフが光を反射してキラリと輝く。
けれどその動きを見て、瞬間的に思う。彼女は体を動かすことに慣れていないのではないだろうか。
それならと、着物の裾を思いきりたくし上げる。生まれつき反射神経は悪くない。むしろ人より良い方だと思って生きてきた。
容赦なく顔めがけて下ろされる刃をかわして、動きづらい履き物を蹴り飛ばす。足袋の方が動きやすいが、滑らないように気をつけなければ。
ナイフを持つ彼女は大人しそうな見た目に反して躊躇いが無かった。本当に私を、邪魔者を排除しようとしている。
なんとか二、三度避けたところで、すでに私も彼女も息が上がっていた。
「動かないって言ったじゃない!抵抗しないで、早く死んでよ!!」
「ここから逃げないって言っただけ!抵抗は、するよ!」
こんな所で己の体力不足を実感することになるとは思っていなかった。昔からそうだ。持久力が地に落ちている。明日からランニングでも始めるべきか。
「っ!!」
瞬間、わずかに交わしきれなかったナイフが左腕を掠めた。確認している暇は無いが、じわりと熱が広がっていく。熱いものが腕を伝っていく感覚に、切られたのだと悟る。
「死んで。ねえ、死んで?」
未だ笑っている彼女の暗い瞳が見えた。
そこでふと、それまで浮かばなかった疑問が頭の中に飛び出してきた。
(私って、この子に何かした?)
痛いのは嫌いだ。紙で指を切る程度の傷も大嫌いだ。それなのに、どうしてナイフで切り付けられなければならないのか。こんなことをされる程の、何したと言うのだろう。
悠人が彼女を愛しているだなんて、ただの妄想の話だ。彼女の話に事実なんてひとつも無い。妄想に取り憑かれて、勝手に嫉妬して、そんなことで人ひとりを殺すという。
(最初から、まもとに取り合う話じゃなかったんだ。馬鹿だな、私)
だったらもう、どうでもいいや。もう、どうとでもなればいい。
「刺したい?刺したら気が済む?切ったら気が済むの?」
もうなにも知らない。何もかもが面倒くさかった。
「だったらどうぞ。好きなとこ刺せばいいよ。切ったっていいよ、ほら」
左の二の腕からは血が流れ続けているらしく、赤黒い血液が指先からポタポタと大理石の床に落ちる。後で掃除しなければ。
もう傷は付いてしまった。一度傷が付いたなら、一つも二つも同じだ。ゼロでなければ、全部同じ。死ななければいい、どうでも。
「ほら、どうぞ?」
「っ……」
さっきまでとは一転して狼狽える彼女の様子に、少し驚く。あんなに殺意に満ちていたのに、どうしたのだろう。不思議に思いながらも、引き攣った彼女の表情の滑稽さには、思わず頬が緩んだ。
「今更怯えないでよ。死んでほしいんだよね?ほら、刺さないの?」
言葉と共に一歩、彼女に近づく。もう一歩踏み出そうとした、瞬間。
「そこまでにして、央華さん」
このひと月で馴染んだ声が、耳に届いた。
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