第30話

 そうして、少しの不安を抱えながらも迎えた明くる日の朝。


 寝起きの悪い私が目を覚ましたとき、真っ先に目に入ったのは見覚えのある車の天井だった。


(あれ、家じゃない…)


 はっきりとしない頭でそんなことをぼんやりと考えていると、誰かの視線を感じて、緩慢な動作でそちらに目を向ける。


「起きたか?」


 柔らかく優しい声が落とされると、ゆるゆると頭を撫でられた。


「…はると……?ここ家じゃない…」


 穏やかに微笑う悠人の顔を見上げて、まだ上手く舌が回らないまま訊ねる。


 それと同時にあまり見慣れないアングルの悠人だな、と不思議になり、もしかしたら膝枕されているのかと気づいた。


「今から本家行っておまえの支度するんだよ」

 悠人はまだ夢と現実の間で微睡む私の髪を指でくるくると弄りながら、当然のようにそう言った。

「そうなんだ…?…じゃない、違う。私こんな格好なのに!」


 耳に届いた言葉でぼんやりとしていた思考が覚醒し、勢いよく悠人の膝から飛び起きる。本家で支度なんて、寝耳に水だ。


 しかも寝ている間に連れ出されたため、今の私は下着の上に悠人の黒のTシャツ一枚しか着ていなかった。少なくとも人様の前に出る格好では絶対にない。


 悠人の服を借りたあの後、悠人は特に欲しいと強請ったわけでもないのに、私の服をそれはそれは大量に買ってくれた。


 そのため着る物に困ってはいないのだが、どうやら私が自分の服を着る様子を気に入ってしまったようで、なぜか家の中では未だに悠人の服を着せられているのだ。


 それを、まあ悠人が楽しそうだからいいかと思い、されるがままになっていたのが良くなかった。完全に慣らされて麻痺していたまともな感覚がらこの非常事態で急速に戻ってくる。


 室内ならともかく、車内とはいえここは外。しかも向かっているのは仮にも婚約者の実家なのだ。


 それを思うとこの格好は零点。失格である。というか痴女だと思われても文句を言えない。


「ど、どうしよ…」


 津波のように襲ってくる羞恥に耐えきれず、悠人の膝に頭を戻して身体をきゅっと縮こまらせた。


(本当に、どうすれば…)


「心配すんな。そのまま連れてくって伝えてあるから、本家の奴らも驚かねえよ」

「そういうことじゃない……」


 周囲の目ももちろん気にはなるが、それよりも私の気持ちの問題だ。


 こういうのは駄目だ。どうしても苦手だった。


 本家と言うのだから、そこには悠人の両親が居て、彼らは私の親の借金を肩代わりしてくれた恩人で、私は仮にも息子の婚約者なのだ。

 となれば正式な挨拶をしなければならないはずで、よく考えなくても手土産なんかを待って来るべき状況だった。


 どちらかというと社交的な性格ではないため、初対面の相手と簡単に仲良くなる、なんていう特技も持ち合わせてはいない。

 例外として、悠人に対してはそうでもなかったが。


「帰りたい……」

「何言ってんだ」

「だって、悠人の実家っていっても、私にとってはアウェーだし…」


 少しでも安心感を得るために近くの腕を掴みながら不安を口にすると、悠人がふっと笑った気がした。


「…今笑った?」

「ん?ああ。央華がそこまで不安げな顔してんの見るの、始めてだからな。……すげー可愛い」

「───〜っ」


 何だこの人。

 よくこんな台詞を恥ずかしげもなく口に出来るものだ。


「悠人様、央華様。本家に到着致しましたが…」


 その時、別方向から聞こえてきた自分でも悠人でもない声に、思わず肩を揺らした。


(そうだ、真山さんも居たんだ…)

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