くしゃみ

深夜2時。蒸し暑い夏の夜。


アパートの一室で、直樹はスマホをいじりながら眠れずにいた。エアコンをつけるか迷ったが、電気代を節約するために我慢している。窓を開けると生ぬるい風が入り込み、遠くで虫の鳴き声が響いていた。


ふと、静かな室内に音が混じった。


——クシュン!


(……誰かいるのか?)


くしゃみの音だ。それもすぐ隣の部屋から聞こえたような気がする。しかし、直樹はすぐに違和感を覚えた。


(おかしいな……隣の住人、数日前に引っ越したはずだ)


アパートの壁は薄く、隣室の音がよく聞こえる。だが、確かにあの部屋は空室のはず。直樹は引っ越し業者が家具を運び出すのを見ていたし、管理会社の通知でも空き部屋になったことが知らされていた。


「……気のせいか?」


寝不足のせいかもしれない。そう思いながらも、直樹はベッドの上で耳を澄ませる。しかし、それ以上の物音はない。


スマホの画面に目を戻した、その時——


——クシュン!


さっきよりもはっきりとした音。それも、今度は隣の部屋ではなく……自分のすぐ近くから聞こえた気がした。


直樹はゾクリとした悪寒を覚え、ゆっくりと辺りを見渡す。もちろん、部屋には自分しかいない。


(気のせい、だよな……?)


寝不足のせいかもしれないと、自分に言い聞かせる。しかし、なぜか心臓の鼓動が速くなる。


そして——


——クシュン! クシュン! クシュン!


立て続けに響くくしゃみの音。


それは、壁の中から? それとも天井から? いや、部屋全体から聞こえてくるようだった。まるで何十人もの見えない誰かが、一斉にくしゃみをしているような……。


直樹は全身の毛が逆立つのを感じた。部屋の温度は変わらないはずなのに、急に寒気がする。


(これ、ヤバい……)


直感的にそう思った。


反射的にスマホを手に取り、友人の田中にメッセージを送る。


「なあ、変なこと聞くけど……今くしゃみとかしてないよな?」


送信した直後、田中からすぐに返信が来た。


「は? してないけど、どうした?」


その瞬間——


「うつったね」


耳元で囁くような声が聞こえた。


直樹は悲鳴を上げることもできず、ガタガタと震えながら振り向いた。


そこには——誰もいない。


だが、ベッドのシーツには見覚えのない湿った跡がついていた。まるで、誰かがそこに座っていたかのように。


恐怖に駆られた直樹は、急いで部屋を飛び出し、アパートの階段を駆け下りた。夜の静まり返った通りに出ると、ようやく少し落ち着くことができた。


(あれは何だったんだ……?)


スマホを確認すると、田中からさらにメッセージが届いていた。


「おい、どうした? なんかあったのか?」


直樹は震える指で返信を打つ。


「変な音がする。くしゃみの音が……。あと、誰かに『うつったね』って囁かれた」


すると田中から、すぐに返信が返ってきた。


「……お前さ、それどこで聞いた?」


直樹の背筋が凍る。


「部屋の中……なんで?」


数秒後、田中からの返信が来た。


「それ、やばいぞ。俺の知り合いが前に同じこと言ってた。でも……」


「でも?」


「その話した翌日に死んだ」


直樹の手が震える。心臓がバクバクと鳴り響き、冷や汗が背中を伝う。


(ウソだろ……?)


だが、その時——。


——クシュン!


スマホの画面に、メッセージが一つ追加された。


「うつったね」


それは田中からのものではなかった。


スマホを取り落とし、直樹は慌てて後ずさる。周囲には誰もいない。通りも、アパートの入り口も、ただ静まり返っている。


だが、その静寂の中——


どこからか、くしゃみの音が聞こえ続けていた。


***


翌朝、直樹は自室で死亡しているのが発見された。死因は不明。だが、不審なのは彼の顔だった。まるで何かに驚いたような表情で、口元には微かに笑みが浮かんでいたという。


そしてその夜——


直樹の部屋の隣に、新しい住人が引っ越してきた。


深夜2時。


彼の部屋から、かすかな音が聞こえた。


——クシュン!

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