冷たいアスファルト
夜の街は静かで、街灯が湿ったアスファルトをぼんやりと照らしていた。
梅雨の終わりの蒸し暑さが地面から立ち上り、靄のように漂っている。中村陽介(なかむらようすけ)は、残業を終えていつもと違う道を歩いていた。最短ルートのはずだが、見覚えのない裏通りに迷い込んでしまった。
「まあ、どこかで大通りに出るだろう」
そう思いながら、湿ったアスファルトを踏みしめる。
古びた道はひび割れが無数に走り、所々がわずかに沈んで波打っていた。人通りは皆無で、背後に続く自分の足音だけが響く。
その時——。
「…たすけて…」
足が止まった。
声がした。どこかで誰かが助けを求めている。
「誰かいるんですか?」
陽介は耳を澄ましたが、答えはない。周囲の建物は古びた倉庫ばかりで窓は暗く閉ざされている。気のせいか、と歩き出した時——。
「…ここだ…たすけて…」
声は、足元から聞こえていた。
陽介は驚き、ゆっくり視線を下げた。
ひび割れたアスファルトの奥、黒い隙間の中に何かが見えた。
——人の目だ。
「うわっ!」
心臓が跳ね上がる。アスファルトの隙間から、青白い目がじっとこちらを見つめていた。
「おい、大丈夫か?誰かいるのか?」
返事はなく、代わりに白い指がひび割れからゆっくりと這い出てきた。アスファルトが粘土のように歪み、指が這い出るたびにじわじわと黒い裂け目が広がっていく。
「寒い…苦しい…助けて…」
湿った声が響くたび、背筋が凍りついた。陽介は後退ろうとしたが、足がアスファルトに吸い付くように動かない。下を見ると、靴が地面にめり込んでいた。
「な、なんだこれ!?」
必死に足を引き抜こうとするが、アスファルトは粘りつくように足首を飲み込んでいく。
「…あたたかい…こっちにおいで…」
声が増えていた。
最初は一つだった声が、無数にささやいている。道路のあちこちでひび割れが広がり、覗く目、伸びる指が増えていく。
「やめろ!やめてくれ!!」
悲鳴を上げた瞬間、アスファルトがまるで沼のように陥没し、陽介の腰まで飲み込んだ。冷たさが骨に突き刺さるようだった。
「あなたも…こっちに来れば…ずっと一緒…あたたかい…」
目の前でひび割れがさらに開き、白い顔がせり上がってきた。
皮膚は青白く、ひび割れて土に汚れている。口元がにぃっと裂けるように笑い、歯の間から黒い泥が滴り落ちた。
「やめろ!!俺は行かない!!」
必死に叫ぶが、アスファルトは腰、胸、肩と次々に飲み込み、ついに顔を残すだけになった。
「…あたたかいねぇ..」
顔のすぐ横で、無数の手がひび割れから伸びてきた。
その指が頬を撫でた瞬間、陽介の意識は闇に沈んだ——。
翌朝。
通勤途中の会社員が、奇妙なアスファルトの凹みに気づいた。
靴の形にくっきり沈んだ跡が道に並び、途中で突然消えている。
「…ここ、昨日まではこんな跡なかったよな?」
何人かが訝しんで覗き込んだが、ひび割れの奥から何も見えなかった。
だが、誰もいなくなった後。
ひび割れの奥で、目が一つゆっくりと開いた。
アスファルトが、くぐもった声でささやいた。
「…あたたかい…もっと…」
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