終電の駅

深夜、終電が行ってしまった後の駅には、独特の静寂が広がる。人気のないプラットフォームに吹き込む冷たい風が、肌を刺すように冷たい。


佐藤亮介は、飲み会の帰りに終電を逃し、仕方なく駅で始発を待つことにした。タクシーを呼ぶほどの金もなく、近くに時間を潰せる店もない。仕方なくベンチに腰を下ろし、スマホをいじりながら時間を潰すことにした。


時刻は午前1時を回っている。駅のアナウンスも止まり、時折響くのは夜風に揺れる広告板のかすかな音だけだった。


ふと、誰かの視線を感じた。


亮介は顔を上げた。


ホームの端に、スーツ姿の男が立っていた。


薄暗い照明の下、その男は微動だにせず、線路の向こうをじっと見つめている。


「こんな時間に、まだ誰かいるのか……?」


少し不審に思ったが、関わるのも面倒だ。飲み会で疲れた体を休める方が先だ。亮介はスマホに視線を戻した。


***


10分ほど経っただろうか。


ふとした瞬間、亮介は背筋がぞわりと寒くなるのを感じた。


――まだ、あの男がいる。


さっきと全く同じ場所に、全く同じ姿勢で立っている。いや、それどころか、呼吸すらしていないように見えた。普通なら、人間は少しでも体を動かすものだ。それがない。


それに気づくと、急に心臓がざわつき始めた。


スマホの画面に集中しようとするが、意識の片隅に「見てはいけない」「気づかれたらダメだ」という警告が響く。


しかし――


耐えきれず、ちらりと男を見てしまった。


その瞬間、男の頭が、ありえない角度で、ぐるりとこちらを向いた。


首だけが、ゆっくりと180度回転する。


目が合った。


男の顔はひどく青白く、目は異様に大きい。瞳が異常に黒く、まるで底の見えない穴のようだった。口元にはぎこちない笑みが浮かんでいるが、それは「人間が笑顔を作ろうとした形」ではなく、「何かが人間の真似をしている」ように見えた。


亮介は息を呑み、スマホに視線を戻す。見なかったことにすれば、大丈夫だ。そう思い込み、震える指で画面をスクロールした。


しかし――


スマホの画面に映る前面カメラの反射に、その男の顔がすぐ後ろに映っていた。


耳元に、低い声が囁く。


「……次、乗るの?」


心臓が止まりそうになった。


亮介は悲鳴を押し殺しながら、全力で駅の改札へと走り出した。何かが後ろにいる。気配がする。背中に冷たい視線が突き刺さる。


でも、振り向いてはいけない。


そう直感的に理解した。


改札を飛び越えるように抜け、駅の外へと飛び出す。外の空気がやけに生ぬるく、体中から冷や汗が噴き出すのがわかった。


ようやく、駅の前のコンビニに逃げ込んだ。明るい店内の光が、どこか安心感を与えてくれる。店員の視線を感じる。


「……はぁ、はぁ……」


肩で息をしながら、ゆっくりと振り返った。


もう、誰もいない。


ホームの端にいたあの男も、駅の入口にも、誰の姿もない。


ホッとしながら、スマホを開く。


ふと、カメラアプリが起動していた。意図せず撮影されていたらしい。画面には、駅を飛び出す直前の亮介の姿が映っていた。


その背後に――


びっしりと、人がいた。


スーツ姿の男を先頭に、無数の青白い顔が、暗闇からこちらを覗いていた。


ぞっとして、慌ててスマホを閉じる。心臓が高鳴る。手が震える。


「何だったんだ、あれ……?」


亮介はそのまま、朝までコンビニで時間を潰した。


***


翌朝、始発の時間になり、亮介はようやく駅に戻った。


しかし、ホームには誰もいない。あの男も、あの人影たちも、すべて消えていた。


ホッとしながら改札をくぐろうとしたとき、不意に駅員が声をかけてきた。


「あの……失礼ですが、昨夜の深夜1時ごろ、この駅にいらっしゃいましたか?」


亮介は驚いて頷いた。


「ええ……いましたけど」


「……そうですか」


駅員は少し言い淀んだあと、小さく息を呑み、こう言った。


「防犯カメラに、あなたが誰もいないホームに向かって話しかけている映像が映っていまして……」


亮介の背筋が、氷のように冷たくなった。


「しかも、あなた……」


駅員の手が震えながら、タブレット端末を差し出す。そこには、昨夜の防犯カメラ映像が映っていた。


駅のホーム。そこにいるのは亮介、ただ一人。


スーツ姿の男など、どこにも映っていなかった。


しかし、映像の亮介は、何かに怯えながら、何かと会話をしている。


やがて、映像の中の亮介が、スマホを持ち上げた瞬間――


タブレット端末の映像が一瞬ノイズで乱れた。


次の瞬間、画面いっぱいに、あのスーツの男の顔が映った。


無理矢理引き裂かれたような笑顔のまま、男が小さく囁く。


「次、乗るの?」


タブレット端末が、バチンッ! と音を立ててフリーズした。


駅員は絶句し、亮介は言葉を失った。


……朝のホームは静かだった。


しかし、ホームの端に、うっすらと靄のような影が見えた気がした。


それが誰なのか、亮介はもう二度と確かめるつもりはなかった。

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