塩の結界
田舎の小さな集落に住む彩乃は、祖母から教えられたある風習を幼い頃から守っていた。それは、「家の周りに塩を撒く」というもの。祖母はこう言った。
「塩は清めの力を持つ。この結界があれば、悪いものは家に入れない。」
彩乃はその言葉を信じ、祖母が亡くなった後も毎月、新しい塩を家の周りに撒き続けていた。しかし、いつしかその習慣も忘れ、塩が切れても新しいものを買わない日が続いた。
それは、ある蒸し暑い夏の夜のことだった。彩乃が眠っていると、どこからか低いうめき声が聞こえてきた。目を覚まし、暗い部屋の中で耳を澄ますと、それは家の外から聞こえてくるようだった。
「誰かいるの……?」
恐る恐る窓を開けると、月明かりに照らされた庭先に、人影がぼんやりと立っていた。だが、何かがおかしい。その人影は普通の人間のように見えながらも、動きが妙にぎこちなく、頭の形が歪んでいた。
「どうして……?」
さらに目を凝らすと、その人影が少しずつ家に近づいているのがわかった。胸の奥が凍りつくような感覚が広がる。
「あれは……人じゃない。」
彩乃は咄嗟に玄関の鍵を確認し、全ての窓を閉めて回った。だが、その人影は家の周囲をゆっくりと歩き始めた。明らかに、何かを探しているようだった。そして、耳元で聞こえるような囁き声が突然現れた。
「塩がない……結界がない……」
その瞬間、彩乃の頭に祖母の言葉が蘇った。「塩の結界」がなければ、悪いものが家に入る――。
急いで台所に駆け込み、戸棚を探したが、塩は全て使い切っていた。焦燥感が募る中、家の外で何かが爪で引っ掻くような音がし始めた。最初は小さかった音が次第に激しくなり、まるで何かが家の中に入りたがっているかのようだった。
「ダメ……どうすれば……!」
彩乃は、玄関に置いてあった古い塩の袋を思い出した。それは祖母が遺したものだ。棚の奥から掴み出し、中身を確認すると、わずかに残った塩が底に溜まっていた。
その塩を握りしめ、震える手で家の周りに撒き始めた。音を立てて撒くたび、外の「何か」は苦しむようなうなり声をあげた。影は家から少しずつ遠ざかっていく。彩乃は最後の一握りを玄関の前に撒き、息を切らせて立ち尽くした。
静寂が戻り、影は完全に消えた。
「……終わったの……?」
安心したのも束の間、彩乃の背後でかすかな囁き声が聞こえた。
「塩が足りない。」
振り返ると、台所に置いておいたはずの塩袋が空っぽになっていた。そして、その横には先ほどの人影が立っていた――今度は家の中に。
その夜、彩乃の家は静寂に包まれたままだった。翌朝、訪れた隣人が見たのは、家の中に散乱した塩と、その中心にぽっかりと開いた空間だけだった。
それ以降、集落の人々は家の塩を切らさないようになり、「塩の結界」の風習がより厳重に守られるようになったという。
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