第36話
テズム村は、王都から馬かロバに乗って四、五日の距離にある、小さな山あいの村である。街道から外れた位置にあり、旅人が訪れることも少なく、酪農と果樹栽培が盛んで、季節になれば果樹園に花が咲き、村の空気は甘く香る。チーズや果樹の取引する商人ぐらいしか来ない小さな村である。
そんな村のはずれに、一つの朽ちた遺跡がある。
石造りの建物で、今では屋根も壁も崩れ落ち、どこかの寺院跡だったらしいが、詳しく知る者はもういない。大人たちにとってはただの「危ない場所」だが、子どもたちにとっては、そこが最高の遊び場だった。
「俺が騎士だ! ドラゴンを討ち取る!」
崩れた石柱の間を駆けながら、ひとりの少年が木の剣を高く掲げた。
「またお前が騎士!? やだー、ずるい!」
「さっきくじ引きで決めただろ!」
「ほら、もう! そんなことでまた揉めてるし!」
「……ていうかさ、もう昼過ぎだよ? お腹空いてきた」
「えー、最後にあと一回だけやろうよ! ほら、次は魔法使いやるから!」
わいわいと響く声が、崩れた神殿の天井から抜ける空へと昇っていく。石壁には蔦が垂れ、草花が根を張っている。日差しは穏やかで、石畳の割れ目には野草が可憐に揺れていた。
まるで、この場所が時間から切り離され、自然とともに眠っているかのようだった。
だが、その静けさは、次の瞬間に破られた。
少年のひとりが、ふと足元に目をやる。神殿の中心にある円形の石盤が、じんわりと光を放ち始めていたのだ。
「えっ、なにこれ……」
微かな音が地面を震わせると、床の隙間から青白い光が漏れ出し、やがて渦を巻くように神殿全体に広がっていく。
「うわっ、まぶしっ!」
「な、なに!? これ魔法!? 本物!?」
「逃げろ逃げろ逃げろー!!」
子どもたちは悲鳴をあげながら、草の生えた石段に転げるように身を隠した。
やがて、光の中心から三つの影が、ゆっくりと現れた。まるで夢の中から抜け出してきたように、幻想的な静けさとともに。
一人は、長い髪を揺らしながら立つ女性。ドレスに纏うその姿、凛として気品があり、どこか現実離れした雰囲気を纏っていた。
その隣には、黒く鋭い目をした四足の獣――犬のようでもあり、狼のようにも見える存在とまだあどけなさを残す少年がそこにいた。
神殿に満ちていた青白い光は徐々に収まり、やがて静けさだけが残った。
身を寄せ合い、呆然と立ち尽くしていた子どもたちの中で、ひとりの少女がぽつりと呟く。
「……女神さまだ……」
・・・
一方その頃、王都では、宮廷内に不穏な空気が漂っていた。
「ロムスロイ家の令嬢イリアナ嬢の指名手配」という知らせに、貴族たちは驚きと困惑を隠せずにいた。
「何かの間違いではないのか?」
「令嬢が誘拐されたという話ではなかったのか?」
「それが、突然“逃亡”とされて……」
「では、本当に毒殺事件の…」
廷臣たちの間では、憶測と混乱だけが広がっていった。
ことの発端は、王宮の政務局が発行した文書だった。イリアナ・ロムスロイを「容疑者」「逃亡者」として記した文面は、すでに王都の各門衛や都市間の関所に即時通達されていたのだった。
政務局では担当事務官が何度も同じ説明を繰り返していた。
「確かに、王命による指名手配書として、私は書類を作成しました。内容も手順も、正規のものと何ら変わりありません」
「では、その命令書は誰から受け取ったのだ」
「……それが……」
事務官はその問いに言葉を詰まらせた。
「命令を携えてきた男は、確かに王命と記された紋章入りの封筒を持参していました。身分証もありましたし、私が偽者と見抜けるような隙もなかった。だが……その者の名が、記録に残っていないのです。通行記録なども改めましたが、その人物は存在していませんでした」
「つまり、命令の出どころが不明だと?」
「……はい」
この異常事態に、事務局長が顔をしかめる。
「すでに、各地に向かって手配されてしまっています。嵐の影響で、一部遅れている場所はございますが」
「そんな不確かな情報をもとに、貴族令嬢を反逆者として通達したとあっては、王家の威信に関わるぞ」
「では、間違いだったと改めて通達いたしますか」
その時、その場にいた者たちは黙ってしまった。
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