第30話

 石造りの広々とした応接室に、静かな時間が流れていた。

 天井から吊られた蝋燭の光が、机上の地図と密書をぼんやりと照らし出している。


 中央に座るのはバルサス・グロイデン。グロイデン商会の長である


 「イリアナ嬢を逃がしたのは痛恨だな」


 静かに発せられた声。怒号ではないが、冷えた怒気を孕んでいた。

 部下のアレインとカドモスが、身じろぎもせず直立している。

 バルサスは、机上に置かれた報告書に目を落とすと、無造作にそれを弾いた。


 「イリアナ嬢は王子毒殺の首謀者として指名手配された。……これで、多少の弁明があったとしても、世間は彼女を罪人としか見まい」


 声は平坦だったが、言葉の一つひとつが突き刺さる。

 アレインが慎重に言葉を選びながら進言した。


 「……それでも、誰かと接触し、真実を口にすれば、事態は厄介になります」


 バルサスは浅く頷く。

 「わかっている。だからこそ、迅速な対応が必要だ」

 彼の指先が、軽く卓上を叩いた。

 そのリズムは、焦りを打ち消すかのように一定だった。


 内心では感じている。 あの公爵からの重圧を。

 

 「現地指揮はたしか、ザクロスだったか」

「ええ、とにかく生死を問わず、伯爵令嬢を確保するよう指示しております。

必要なら、目撃者や余計なことを知った者も、始末して構わんとな」


 カドモスが一歩前に進み出る。


 「手筈は整っております。」

 「いいだろう」


 バルサスは短く応じた。

 ザクロスは必要以上に語らず、任務を粛々と遂行する男だ。


 バルサスはそう信じたかった。

 「公爵閣下の望みを答えねば…」


 声を落とし、続ける。

 アレインもカドモスも、顔を引き締めた。

 バルサスは蝋燭の火を見つめたまま言った。


 「ひとつ間違えればすべて水の泡だ」


 声は冷静だったが、卓上を叩く指先にわずかな苛立ちが滲む。

 焦りを悟られぬよう、バルサスはすぐに態度を改めた。

 「今は時間との勝負だ」


 立ち上がり、両手を机につく。

 「イリアナ嬢を捕らえれば、グロイデン商会は一気に飛躍する。 公爵閣下の庇護のもと、我らはこの国の裏を支配する地位に上り詰める」


 「……失敗は、死を意味するかもしれませんな」


 カドモスが低く呟く。

 バルサスは笑った――だが、それは氷のように冷たい笑みだった。


 「当然だ」

 

 その野望は、バルサスにとってもはや後戻りのできないものだった。

 「……行け。一刻も早く、嬢の居場所を突き止めろ」

 部下たちは無言で深く頭を下げ、即座に部屋を出ていった。


 残されたバルサスは、蝋燭の揺れる光を見つめながら、わずかに目を細めた。


 その眼差しの奥には、確かな焦燥と、冷徹な野望が宿っていた。

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