午前0時のホットライン
千早さくら
前 編
通話しようと衛星携帯電話を手にし、いざ通話ボタンを押す寸前になって、相良宗介は動きをとめた。むっつりとした表情のまま液晶画面をにらみつける。四センチ×五センチの小さな画面に表示されているのは、「CHIDORI, KANAME」という文字列である。
その千鳥かなめという名前をもつ少女の、黒髪に縁取られた卵形の顔が浮かぶ。ミスリルからの呼び出して二日前に東京を出立する際に見たのは、切れ長のアーモンド・アイとふっくらした唇の形作るきれいな笑顔だった。
しかしこの電話をかければ、おそらく彼女は怒る。たぶん怒る。いや、間違いなく怒る。怒っていないと口では言いながら、全身で怒りを表すだろう。約束を反故にするときに、たいていそうであるように。
宗介は、他者の言葉を額面どおりに受け取る傾向がある。それでも相手がかなめに限っては、時折彼女の見せる言動と心情との乖離について、ここ七ヶ月の付き合いでそれなりに学んでいた。
(連絡は可能な限り早いほうがいい。遅くなるほど状況は悪化するのだぞ)
自分に言い聞かせて、ようやく通話ボタンを押した。
呼び出しの電子音が鳴るやいなや、明るいアルトの声が応じる。
「ソースケ? 今どこなの?」
「……千鳥、今日は戻れなくなった」
「……ふうん、あっ、そっ」
かなめの声が急に固くなる。これは彼女が不機嫌になる兆候だ。慌てて状況を伝えた。
「作戦の一部が計画通りにいかず、だいぶ遅延している。そちらに戻るのは、早くて明朝、ひょっとすると夜になるかもしれない」
作戦内容などを具体的に説明するわけにはいかず、どうしても説明は簡単になってしまう。もっとも詳しく説明できたところで、彼女の機嫌を直せるものでもなかったが。
「そうよね。あんたにとっては仕事が一番たいっっっせつだもんね」
「うむ。理解してもらえて助かる」
「……あんたって……」
「どうした、千鳥?」
「もういい。さっさとテロリストでもゲリラでもやっつけに行けばいいでしょ!」
「テロリストとゲリラではまったく別物だぞ」
「定義なんてどーでもいいわよ」
かなめは明らかに機嫌を損ねた様子だ。思わず溜め息が漏れる。その溜め息を、インマルサットの回線は太平洋を縦断してきちんと日本に届けてしまった。
「なによ、溜め息つきたいのはあたしのほうなんだから」
「いや、違う千鳥、これはだな──」
「もういい! せいぜい善戦してきなさいっての」
待て、誤解だ、という宗介の弁明が回線に乗る前に、かなめとの通話は途絶えた。
宗介は携帯電話を耳から離し、もう一度大きく溜め息をついた。かけ直したところで、今度は出てもくれないだろう。どうしたものかと途方に暮れるばかりだった。
千鳥かなめは、荒々しい動作で自分のPHSをキッチンのカウンターに置いた。せっかくの奇麗な顔立ちが台無しになる膨れっ面だ。
帰宅予定の時間を過ぎても宗介から連絡がないので心配していたというのに、やっと電話がかかってきたと思えば帰りは明日になるという。さらにはあの、いかにも相手の物分かりが悪くて呆れたといったような溜め息……。ああ、もう、ムカつくったらない。
「それに」
千鳥家で一番大きな両手鍋をちらっと見た。
「この大量のカレー、一人でどうしろってのよ」
ふて腐れ気味に低く毒づく。二人分の夕食と、宗介に持ち帰らせる分とで、カレーは鍋一杯に作ってある。
「誰のために休日の午後を費やしてまで作ったと──って、そーじゃない。ついでよ、ついで。あくまでもついで」
室内には自分しかいないのに、かなめは誰にともなく言い訳して、出番のなくなったカレー皿を食器棚に戻す。調理台に出しておいたレタスとキュウリとトマトは、冷蔵庫の野菜室に押し込んだ。サラダを作るつもりだったのだが、面倒くさくなってしまった。
自分の分だけ盛り付けたカレー皿をテーブルに配し、席に着く。手を合わせて、
「いっただっきま~す」
と大きな声をあげた。
カレーライスはかなり気合いを入れて作った。ルーは市販品だが、飴色タマネギを加えている。しかもショウガとニンニクと一緒に、オリーブオイルとバターで炒めたものだ。宗介が具材のごろごろ入っているタイプを好むので、タマネギはちゃんとそれ用にも取り分けておいた。ジャガイモとニンジンも少し大きめで、中がホクホクしている。チキンは奮発して多めに入れた。彩りのためのパプリカとスナップエンドウが色鮮やかだ。
「うん、美味しい。さすがだ、あたし!」
強がってわざと声に出し自画自賛してみる。
「ふふん、こんな美味しいカレーを食べずにドンパチしてるなんて、誰かさんってばお気の毒さま」
ドンパチ……か。そうだ、彼はまだ戦場にいるのだ。
思ってしまった途端、スプーンを動かす手が止まった。空元気は急速に勢いをなくし、変わって後悔の気持ちが押し寄せる。
かなめは電話口での自分の応対をひどく悔やんだ。またやってしまった、と。
仕事なのだから仕方がないのだとわかっている。わかってはいるが、どうしようもなく腹が立ってしまうのだ。
腹を立てたのは、約束を反故にされたからではない。戻るのが一日遅れるということは、彼が危険の中に身を置く時間が伸びるということだからだ。
彼の特殊な職業──傭兵という職業は、常に危険と隣り合わせ、いや、危険と抱き合っているような仕事だ。無事を祈る気持ちが転じて、かなめの場合はどういうわけか怒りに似た感情が湧き起こる。
そしていつも気づけば感情のままに、何かしら思ってもいない言葉の刃を投げつけてしまう。「仕事とあたしとどっちが大切なの?」などとバカなことをヒステリックに叫ぶような愚かな女になどなりたくないのに、これでは似たようなものだという自覚はあった。
「あたしのバカ」
かなめはぽつりと呟いた。
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