Blackout Violation

千早さくら

前 編

 ディナースプーンに山盛りにすくった熱々のダンプリングを、千鳥かなめはハフハフと頬張った。薄塩味のふかふかな団子が、とろりとしてコクのあるクリームスープと絡み合って、口内に得も言われぬハーモニーを作り出す。スプーンを力強く握りしめて、幸福感に浸った。


「ん~~~おいしっ」


 何口か食べているうちに身体が内側から暖まってきた。かなめはフリースのワンピースの上に羽織っていたカーディガンを脱いで、椅子の背に掛けた。


「寒いときはやっぱこれよね~」


 夕食のメニューはチキン&ダンプリングにした。洋風のすいとん──味や食感はだいぶ異なるが──といった感じの、アメリカで定番の家庭料理だ。本格的に作るのは面倒でも、クリームシチューにビスケット生地を落として煮込めば、手軽に代替品ができあがる。昨夜の夕食に用意したシチューがたっぷり残っていたので、今日はアレンジしてみたわけだ。


 大鍋六分目ものシチューが余った理由は、調理を始めた段階では二人分+後日グラタンに転用する分だったのに、いっしょに食べるはずだった人物から途中で断りの電話が入ったからだ。仕事が長引き、まだ事後処理に追われているため、帰宅がいつになるか不明であるとの連絡を受けたとき、すでに肉と野菜を煮込みながらホワイトソースを作っているところで、そのまま仕上げたほうが面倒がなかったのである。


 かなめ特製クリームシチューを食べ損ねた相良宗介はといえば、今朝方に無事戻ってきていた。しかし、二度続けて欠席した古文の担当教諭から、放課後に前日までの課題を仕上げるように言い渡されて居残りとなった。古文が対戦相手では、彼は今日も苦戦を強いられるだろう。


「今日中に帰って来られるのかしらね?」


 かなめは冗談半分に呟いた。生徒の下校時刻は決まっているので、そろそろ解放されるはずだ。


「やっぱりウチに寄ってくようにメールしとこうかなあ」


 下校間際に宗介が古文の教師に掴まり連行されていったため、今日はなんの約束もしていない。


「そうよね、シチューがい~っぱい残っちゃてるのはあいつのせいなんだから、ちゃんと責任とってもらわなきゃ」


 誰に対する理由付けなのか、妙にきっぱりと言い切ってから、かなめは食べ終えた食器を持って立ち上がった。


 そのときだった。タイミングを合わせたように、いきなり部屋の電灯が消えた。


 唐突に闇に包まれる。一瞬動きを止めたかなめは、戸惑いながらも手に持っていたシチュー皿をゆっくりとテーブルに戻した。感覚を頼りに壁際まで歩き、スイッチを探った。すぐに見つかり押してみたが、スイッチはカチッと小さな音を立てるだけで、明かりを灯してはくれなかった。


 気づけば、付けっぱなしにしていたはずのTVも黙り込んでいる。ブレーカーが落ちたのだろうかとそちらに歩きかけて、ふと思い立ち、リビング・ダイニングを横断する。ガラス戸越しに外を眺めた。


 付近のマンションや戸建てに、明かりは一つも見当たらない。近所一帯が暗闇に沈んでいる。どうやら我が家に限ったことではないらしいとわかった。


「これって……やっぱ、停電?」


 日本は世界でもダントツに停電が少ない国である。だが、滅多に起こらないせいで、逆にこうして起きたときには対処に迷うのだ。どうしたものだろうかとかなめは思案した。地震や台風、はたまた火事などと異なり、停電なら緊急に避難するような必要はないはずだ。


「まぁ、タイミングはよかったかも」


 夕食はちょうど終えたところであり、たまたますでに風呂も済ませていた。自宅を目の前にして急に降りだした雨で、少しばかり濡れたのが逆に幸いしたといえる。髪も乾かしてある。彼女は腰まで届くほどに長く髪を伸ばしていたので、ドライヤーなしで乾かすとしたら苦労しただろう。


「とりあえず、懐中電灯かな?」


 宗介からの提供品を備えたばかりだったため、探すのに苦労しなかった。キッチンカウンターの引き出しからミニマグライトを取り出して、点灯する。同じ場所にしまっていた携帯ラジオとマッチも手に取った。


 ラジオのスイッチを入れてみたが、チューニングしてあるNHKでは落語が流れている。停電についてなにも言及していないのは、さほど広範囲に及んでいないという意味なのだろうか。範囲が狭すぎたなら、速報にするほどのニュース的な価値はないのかもしれない。


「そーいや東部大停電のときはひどかったわよね」


 数年前にまだアメリカに住んでいたころの話だ。アメリカ北西部からカナダにかけての一帯で、真夏に二九時間に渡って大規模停電が発生したことがあった。サマーキャンプに参加していたのでニューヨークにこそいなかったものの、キャンプ先も停電区域内だったため、彼女も迷惑を被った一人だった。当時を思い返して、なにをしておくべきかを考える。


 すぐに復旧されるだろうと思いつつも、念のために風呂場に向かう。水栓のレバーハンドルを上げて、浴槽に水を溜め始めた。水道管に問題がなくても、このマンションのように貯水槽を使用している場合、屋上まで水を上げるために電動ポンプを必要とするので、停電が長引けば断水する可能性があった。そのときになくて一番困るのが、トイレに流す水なのだ。


 キッチンに戻り、鍋とやかんも水で満たして飲食用も確保した。食品の在庫を確認してから、バスルームの水を止めに行く。予備の乾電池を見付けるのに少し手間取ったが、それでさしあたってやっておくべきことは終えた。


 灯りのろうそくは、わざわざ用意する必要がなかった。リビングテーブルの中央には、色とりどりのアロマキャンドルと可愛らしいキャンドルホルダーが飾られてある。数週間前に妹からの誕生日プレゼントとして届いてからずっと、そこが定位置だ。アメリカ育ちの姉妹にとって、キャンドルを日頃から身近に置く習慣には馴染みがあった。


 キャンドルホルダーを引き寄せた。中のキャンドルに火を灯す。柔らかなオレンジ色の小さな炎が浮かび上がった。それを反射して、ステンレス製のホルダーは銀色にほんのりと赤みが差す。


 ホルダーは妹好みのものだった。キャンドルを収めるカップ部分から伸びた柄の先に、ちょうどキャンドルの真上に傘をかざすような形でプロペラが付いている。ろうそくの熱による上昇気流で、それを回転させる仕掛けだ。


 少しの間待っていると、期待どおりにプロペラはゆっくり動き始めた。やがて勢いがつき、円周にいくつか吊り下がる雪の結晶をかたどった銀色の飾りを揺らしながら、くるくる、くるくると回り続ける。


 指先に小さな灯りのほのかな熱を感じた。その暖かさのためか、ふいに首筋や足元に寒気を感じた。


「そっか、暖房……」


 エアコンが止まってから三〇分ほど経っただろうか。室内が冷えてきている。


 夕方のニュース番組のお天気コーナーで、天気予報を担当する都知事の次男が、早口で捲し立てた姿が思い出された。


「今夜は、これからますます冷え込みが厳しくなります」


 今思えばなんと残酷なセリフだったのだろう。なにしろ現在のかなめには暖房器具がまったくなにもない。エアコンもファンヒーターも、電気がなければただのオブジェだ。オール電化の弱点である。


 とりあえず椅子の背に掛けておいたカーディガンを羽織っていると、状況に似つかわしくない軽快なメロディーが流れた。サイドボードの上のPHSだった。


 慌てて立ち上がったはずみで、テーブルの脚に脛をぶつけて涙目になりながら、PHSを手に取った。液晶画面には相良宗介という名前があった。すぐに通話ボタンを押して受話口を耳に当てる。


「相良だ。千鳥か?」


 聞き慣れたハイ・バリトンの声が届いた。


「ソースケ? 補習は終わったの? いま家?」

「帰宅途中だ。三ブロック離れた位置にいる。それよりも、この近辺は停電しているようだが、君の家はどうだ?」


 用件のみを簡潔に述べる声には愛想の欠片もない。だが、かなめは我知らずに笑みを浮かべていた。


「しっかり停電してるわ」

「なにか援助が必要であれば言ってくれ」

「ダイジョブ、ダイジョブ。なんにも問題ないって」

「そうか。では、俺は周辺を探って原因を突き止めてくる」

「はぁ? そんな必要ある? すぐに直るわよ。たぶん」

「テロの危険がある。君は戸締まりを確認し、そこから動かないでくれ」

「言われなくたって出歩きゃしない……って、そうじゃなくて!」

「発電所や送電線を狙ったテロはよくあることなのだ」

「いや、ないから!」

「停電に留まらず、この機に乗じて攻撃してくる可能性も考えられる」

「考えるんじゃないっ!」

「とにかく情報を収集してくる」

「相変わらずなこと言ってんじゃないわよ! どーでもいいからさっさとウチに来なさい」

「うむ、できる限り早く行く。では後で」

「ちょっとソースケ──」


 プツッと音を立てて電話は切れ、むなしいツーツー音だけが耳に残された。


「……あ~もう、あのバカっ」


 非常事態と判断したとたん、彼は耳を貸さなくなる。放っておくしかなかった。


 次第に寒さが身にしみてきたので、寝室のクローゼットへ着るものを取りに行った。防寒に思いつくのは重ね着するくらいだ。


 リビングに戻ったかなめは、湯冷めを心配してもこもこに着ぶくれていた。セーターにレギンス、丈の長いフリースジャケットを着込み、靴下は二枚重ねにして、ネックウォーマーと手袋まで身につけた。さすがにこれだけ着込むとさほど寒さを感じなくてすむ。


 所在なくソファの前に膝を抱えて座り込んだ。


 無意識にTVのリモコンを取り上げてから、気づいて元の場所に置いた。やりかけの宿題が思い浮かんだものの、停電の最中にそこまでする気にはならない。


「昔のヒトって、よくもまあ蛍やら雪明りやらで勉強できたもんよね」


 かなめはぼやきつつ、電気がないとそれこそなにもできないのだと改めて実感した。目の前のキャンドルホルダーを眺めながら、ラジオを聞き流すくらいしかやることがなかった。


 いっそもう寝てしまおうかと腰を上げかけて、宗介が来るのだったと思い直す。


「そういや電気毛布が使えないわけよね。寝るまでに直らなかったら厚着のまま眠るしかないかなあ」


 友人の常盤恭子が泊まりにきたときなどに使う予備の布団は、タイミング悪くクリーニングに出してしまっていた。


「シチューは冷めちゃったよね」


 おそらく宗介はまだ夕食をとっていないだろう。なにか料理を温める手段はないものかと思案したが、IHクッキングヒーター以外で千鳥宅にある調理器は、ホットプレートだけだった。どうしようもない。


「今度カセットコンロと湯たんぽを買っとこ」


 かなめの頭の中にある買い物メモに、二品が書き加えられた。

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