あなたの永遠の物語
水埜アテルイ
クランツァ・ハザリー
ある戦争の記憶
ヴィンス。ルーン。
俺は、まだ生きている。
塹壕で、泥を被った兵士が震えている。
兵士は膝を胸に抱えている。傍には別の兵士が倒れている。俺が撃った敵兵だ。銃弾が飛び交う戦況になっても、銃を持たずに血を吸った塹壕で、取り憑かれたように、溜まった泥水を鉄帽子ですくって地上に投げ捨てていた。完全に正気を失っていた。だが、今は指先一つ動かない。
小銃を向け続ける。
兵士の震えは止まりそうにない。砲弾症だ。砲弾の衝撃と爆音を長期間浴び続けると人は壊れる。全身が勝手に痙攣し、重症化すると激しさゆえに歩行はおろか、直立すらままならない。帝国陸軍で問題視され始めた戦争病だ。われわれが雷雨のごとく竜から投下した爆弾が彼の精神を破壊したのだ。
この通路の生存者は砲弾症の兵士だけだった。
肉片、人体の部位、黄色い脂肪。あの手も、あの足も、ただの肉塊。かつて人間だったものが落ちている。
むかし、飢えに耐えかねた兵士がそれを拾って食べていたのを目撃した。黄色い歯で血管や筋組織を夢中になって噛みちぎる、あの人間が動物に回帰した光景を、俺はじっと見つめて思った。
なぜ、生きなければならない。
兵士と目が合った。小皺ができ、頬や目の周りに黒い線が増える。
ここが人生の終着点だと悟ったのか、兵士は歯を食いしばって嗚咽を抑えた。
指に何か挟まれている。すると兵士は胸から手を離し、頭の高さまでゆっくり上げた。俺は地上から見下ろしている。手は届かない。だが確認しなくとも正体を知っている。
写真、指輪、手巾、髪束、首飾り。
家族だ。
兵士は家族の香りを戦場に持ち込む。夜な夜な吸って故郷を想うために。
俺は人間も異人種も数えきれないほど殺してきた。殺したやつが夢に出るか、と市民に聞かれたことが何度かあった。あれは知識人だったと思う。戦争へ行くことがないから興味があったのだろう。
俺はこう答えた。
今まで食べてきた鳥や豚が夢に出たことはあるか、と。
罪もない人を殺していいのか、と誰かが言った。
罪があれば人を殺していいのか、と俺は答えた。
疲れた。ずっと戦ってきた。
引き金に触れるこの人差し指も、生を渇望する彼のように小さく震えていた。
あの死者の目もたくさんだ。灰と泥で黒ずむ大地で唯一艶やかに光る、あの純白が――あの死んでもなお開き続ける死者の目が、静かに、囁くように、死を誘惑するように耳元で語りかけてくる。
「なぜ、お前は生きている」
「なぜ、お前は生き残った」
「なぜ、お前は生き続ける」
地上は焼け焦げた木々と灰になった木の葉で黒く染まり、砲弾で穿たれた箇所には沼ができ、死体が浮かんでいる。そんなご馳走にありつこうとネズミたちが呑気に水泳を披露し、青白いうなじに噛みつく。
あちこちで銃声が聞こえる。戦争は終わっていない。
新兵は絶句している頃だろう。戦争がどういうものかを知る術がないから英雄譚を信じる。教育訓練中の新兵たちはどこか楽しげで、冒険の旅支度の気分でいる。英雄になって尊敬されたい。凱旋の中で拍手を浴びたい。だが、英雄譚などないのだ。
こんなはずじゃなかった!
そう泣き叫び、恋人や家族を想って終わりを迎える。
砲弾症の兵士と無言で見つめ合う。
指の腹が、引き金に食い込んでいく———。
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