第2話
「葡萄酒を血の代わりにする」
「それってアリ?」
「わかんないけど、でもオッケーって何かで読んだ気がする」
いける!とドロシーが叫んで、止める間もなく魔法陣の中心で酒をぶちまけた。あたりを赤く汚し、線に掛かった葡萄酒がふつふつと泡が立ったと思えば、煙を上げ始める。魔法陣の外にいたカルメンは、さらに煙の内側で、パチパチ火花が弾けているのを音で聞く。
「ねえ、これ大丈夫なやつ?」
「うーん、光るだけのはずなんだけど」
「ドロシー!」
カルメンは慌てて魔法陣に飛び込んだ。ドロシーは驚いて腕を開いて、カルメンを受け止めた。火花が弾けるのに加えて、シュー……と何かが燃えていく音も加わった。カルメンとドロシーはしっかりお互いの服を握りしめて、煙の中、足元を見つめていた。
どれくらいそうしていたか、いつのまにか音は消え、煙もどこかへ流れていった。残ったのは焦げた魔法陣と、その中心でじっと抱きしめ合っていた女の子が二人だけだった。
先に動いたのはドロシーだった。ドロシーはそっと握っていた手を開いてしゃがみこみ、魔法陣に触れた。ドロシーの指が黒く汚れて、それすらポロポロ落ちて消滅する。
カルメンはそれを見ながら、乾いた喉で唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を打っている。指先が冷たくなり、膝がジンと痺れている。ずっと喉の奥まで何かが込み上げているような気がして、何度も唾を飲んだ。
ドロシーがナイフを取り出してサックリ手のひらを切った。しかし血が滲んだのを見るが早いか、傷口は塞がってしまった。カルメンはそれを見て、ドッと全身から汗が噴き出すのを感じた。ようやっと息を吸い、肺を膨らませる。
ドロシーは手のひらを眺めて、残念そうに言った。
「失敗だ」
カルメンはまだ、耳の奥であのシュー……という音が聞こえる気がした。
「カルメン?」
ドロシーの赤い瞳が瞬いて、カルメンの腕を摩った。触れられた左腕だけが熱を持ち、カルメンは自分の身体を認識する。ドロシーの腕を払い、カルメンは自分の首に触れた。そしてドチャッとその場に座り込んだ。
「カルメン、びっくりしちゃった?」
「いつもこう!」
カルメンは声をあらげた。
「いつもこうだ! 私たちでなにかすると失敗するし死にかける!」
言いながら身体を崩して寝転がり、呻いた。既に魔法陣で失敗して三回目だった。
「一緒に死ねなくなった」と溢したカルメンに、ドロシーはひどく驚いていた。死なないでくれと言いながら、いつか死ぬことを望むのは矛盾していると思うのだろう。でもカルメンの中では論理的だった。ドロシーが一人で勝手に危険に飛び込んで死ぬなんて嫌だったし、カルメンが彼女を置いて先に死ぬのも嫌だった。素直さと行動力を目一杯神に与えられたドロシーは、それを聞いて、あっさり不死を手放すことを決めた。ドロシーが決めたとて簡単に消える特性ではないが、ドロシーはあれほど得意げにしていた不死の特性に、もう興味は無いようだった。
それから三回、変質の魔法陣を組み替えて不死を打ち消そうとしているが、失敗に終わっている。
「ああーっ!」カルメンは顔を伏せたまま叫んだ。「全部正しいはずなのに!」
「私の血が使えないこと以外は、ね」
ドロシーがカルメンの腕を引っ張って、座らせた。
「血液中の魔力情報はやっぱり必要か……」
二人は魔法陣の燃え滓を丁寧に消して、図書館へ向かった。新しい方法を考えなければならず、二人の所有する書物では限界に達していた。
カルメンが棚の間をうろうろしている間、ドロシーは集中力を途切れさせ、天井絵を勝手に動かしはじめた。カルメンは背表紙を眺めながら、血の使い方を考えていた。
「切って一瞬は血が出る。それをなんとか紙に染み込ませて、分析して、取り出した魔力情報を疑似血液に付与する」
「切るたびに再生速度が上がってるし、服に付いた血も全部体内に戻ったよ」
「だめか」
カルメンは棚から一冊の本を抜き取った。天井絵にも飽きて、テーブルに寝たまま椅子にタップダンスを踊らせていたドロシーは、退屈そうに表紙に目をやった。
「なに」
「不老不死になった人の話」
「トーラス・ノイラス……」
ドロシーは身体を起こして本を受け取ると、小声で書いた男の名前を読み上げ、ページを繰り始めた。カルメンは肘をついて、ぼうっとそれを眺めていた。ドロシーは下唇を口の中に隠して、ページを繰る反対の手の指を擦り合わせている。これを、最初はドロシーが何かを読む時の癖だと思っていたが、実はとても落ち着いている時のものだと気づいたのは、少し良い毛布を買ったいつかの冬のことだ。彼女は手触りをたいそう気に入って四六時中毛布を纏い、左手でつまんで擦り合わせて手触りを確かめながら、下唇をずっと吸っていた。赤ん坊のくせが抜けていない、無垢に思わせる仕草を、美しい乙女がするものだから、カルメンはこれをきちんと気持ち悪いくせだと認識していた。
しばらくして、ドロシーはパッと口を開けた。
「これそういうフィクションじゃん」
「トーラス・ノイラスの手記」
「そういうタイトルじゃん!」
ドロシーが本を投げる。本は棚にぶつかる前に急ブレーキを掛け、よたよたと宙を歩くと、もとの場所に収まった。
ドロシーは弾みをつけてテーブルから降り、再びトーラス・ノイラスの手記を取った。
「とりあえず、魔法陣はやめよう」
カルメンは黙って頷いた。
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