第3話 ささやかな希望

 亀戸伸治は、受付を済ませると、そのまま沙亜也のいる病室に向かった。手には、沙亜也が食べたいと言っていた、駅前の洋菓子店で買ったバームクーヘンの小袋を持っていた。沙亜也に頼まれて、こっそりと病室に持ち込むためだった。

 面会の制限はかなり厳しい。特に沙亜也は特別病棟の入院患者だから、二人が出会ったのは奇跡に近い。週に一度、天気のいい日に、両親か姉の誰かがついて、沙亜也は十五分だけ外へ出ることが出来た。それも、いつもなら出ることのない一般病棟の入院患者達が集まる方へ、あの日の沙亜也は来たからだった。

 亀戸伸治は、特別病棟まで来ると、そこのナースステーションで手続きをしてから、沙亜也の病室に向かった。さすがに三回目となると、不審な目を向ける者はいないが、場違いな、いたたまれない感じの悪さは拭えない。

 沙亜也が担当医に頼み込んで、面会者リストに亀戸伸治の名前を入れて貰っていたが、よく病院が許可したものだと感心していた。

 亀戸伸治は、沙亜也の病室の前まで来ると息を整えた。胸が高鳴るのを抑えられない。沙亜也は『会いたいから』と言ってくれたが、亀戸自身もそう感じているのはもう隠しようがない。年甲斐もなく、干支を三回りは離れている女性に惹かれていた。親子の情愛のようなものか、それとも異性への恋着なのか、亀戸伸治にもわからない。あるいは、彼女の境遇に同情しているだけなのかもしれない。はっきりしているのは、沙亜也に対する愛情が今も膨らみ続けているということだけだ。

 ただ、沙亜也が何故自分のことを気にかけてくれるのか、亀戸伸治にはその理由が分からなかった。分からないことが不安であり、そしてその理由が失われたら、この関係もあっけなく終わることも分かっていた。それに、亀戸伸治自身も自分の状態から逃げられるわけではない。今は、沙亜也を言い訳にして向き合うべき問題から目を逸らしてるだけだ。

 病室のドアをノックすると、「どうぞ」と言う、沙亜也の声がした。

「遅いよ!」

 病室に入ってきた亀戸伸治に向かって、開口一番沙亜也が恨み言でも言うように口にした。言葉とは裏腹に、その顔には無邪気で屈託のない笑顔でいっぱいだった。身体が不自由な分表情が豊かなのか、心の機微すら掴み取れそうなほどにその表情はさまざまな色を見せる。

「時間通りだと思うんだけど」

 特別病棟の面会時間は十三時から十五時の間、一件につき十五分まで、一日三件を限度とするという旨の案内がそこかしこにある。亀戸伸治が病室の前に来たのが十三時十五分。約束通りの時間だった。

 亀戸伸治も笑顔を浮かべながら、沙亜也のベッドのそばにあるスツールに腰かけた。

「あ、これこないだ言っていたバームクーヘン」

 そう言って、ポケットから小袋に入ったお菓子を出して見せた亀戸伸治に、沙亜也は大きく口を開けて催促した。

「わかった」

 苦笑して、小袋から出したバームクーヘンを少しちぎって、沙亜也の口にゆっくりと入れてやる。満足そうな笑顔でバームクーヘンを咀嚼しながら、「うん、おいしい」と沙亜也が、子供のような笑顔を向ける。それを見た亀戸伸治の胸に、これまで感じたことがない強烈な感情が沸き上がった。

 結婚をしたことがなく、子供もいない。五十六年という時間の大半を独りで生きてきた亀戸伸治にとって、それは、初めて経験する強く、単純で、陽の光にも似たあたたかな感情だった。

「不思議な感じだよね」

 内心のうねりは面に出さず、亀戸伸治は静かに沙亜也に尋ねた。

「何が?」

「今の僕達の・・・何ていうか、よく出会えたよなって思ってさ」

 何故僕なんだ?と、問いたかった亀戸伸治だが、怖くて聞けずかなり遠まわしに、変化球を使ってみた。すると、わずかだが沙亜也の表情が曇った。

「あの日は、お姉ちゃんが一緒だったから」

 沙亜也の声にもいつもの元気がなくなった。亀戸伸治の胸に、針で刺したような痛みが走った。

「お姉ちゃん、あまり気にしないの、私を連れていても・・・。お父さんやお母さんは、こんな娘を人に見られたくないから、私を連れて外に出たくないみたいなの。だから・・・本当にたまたまなの」

 両親のことを話す沙亜也の言葉には、恨み事を言っているような感情はこもってない。

「そうか、偶然に感謝だね。でも、ご両親のことをそんな風に言っちゃ駄目だよ」

 優しく諭すように亀戸伸治は言ったが、それ以上言葉が続かなっかった。

「うん、わかってる」

 うなずく沙亜也に、もうひとかけらバームクーヘンをちぎったが、沙亜也は静かに首を横に振った。

「ありがとう、ごちそうさま。これ以上食べたら太っちゃうから、この辺でやめとく」

 気分を変えたいのだろう、努めて明るく話そうとする沙亜也がいじらしかった。亀戸伸治もそれ以上は何も聞けなかった。

「わかった。残りは・・・どこかに置いておくかい?」

 まだ、半分近く残ったバームクーヘンを、小袋にしまいかけてた亀戸伸治に、「駄目だよ。看護師さんに見つかったら私が怒られるんだからね」という沙亜也の注意が飛んできた。

 そうだった。二人は目を合わせると笑い合い、頷き合う。

「では、証拠隠滅といきますか」

 亀戸伸治はそう言って、残ったバームクーヘンを自分の口に押し込んだ。

 


 しばらく、静かで落ち着いた時間が流れた後、沙亜也が突然口を開いた。

「ねえ、伸治さん。人ってなんで生きる権利は叫ぶのに、死ぬ権利は誰も何も言わないのかな?」

 唐突な質問に、亀戸伸治は沙亜也の眼を見返した。その真剣なまなざしには、何かに対する不満というより怒りが見て取れた。不意打ちのように『死』という言葉が沙亜也の口から出たことに衝撃を受けていた。

「何でそんなこと聞くんだ?」

 自殺という考えたくもない想像が、亀戸伸治の頭をよぎる。沙亜也は、視線を天井の一点に向けると、じっとそこを見つめながら言った。

「私ね、朝起きるといつもこう思うの。まだ、生きてるなって。明日も、明後日も、その次の日も・・・。一体いつまでなんだろう?って」

 そこまで言って、沙亜也は言葉を詰まらせた。一筋の涙が、その眼からこぼれ落ちた。

「私、一体いつまで・・・いつまで・・・。私、もう嫌なの。助けて、誰でもいい、誰か助けて・・・私、死にたいの」

 ぼろぼろと涙を流しながら、沙亜也の、つかえていたものを吐き出すような言葉に、亀戸伸治は圧倒されて何も言えなっかった。ただ、持っていたハンカチで、優しく涙を拭ってやることしかできなかった。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 『死にたい』と言ってしまったことなのか、それとも、涙一つ拭うことさえできない自分のことを謝っているのか。これまで、沙亜也が抑え込んできた本心、医師や看護師、家族にさえ言わず、ただ、耐えて、耐えて、耐えて、こらえてきたものが涙と共に溢れ出していた。

「気にしないで」

 亀戸伸治には、沙亜也にかける言葉が見つからなかった。何を言っても、彼女が直面している現実の前ではただ空虚なだけで、実際なんの力にもならない。

 己の無力がたまらなく悔しかった。

 



 





 




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