男女はそもそもフェアではない

交渉コストの点で男女はそもそもフェアではない。暴力的な性が否定されフェミニズム的融和主義が前にある現在の状況で男が抱える交渉コストは様々な意味で質的にも量的にも拡大している。

女性の場合はそもそも受動的な態度や行動でも咎められることはないが、レディファーストという言葉がある通り男には配慮が要求される。そういう通例や文化的コードがある一方でその恩恵はフェミニストが徐々に破壊している。というより男が提供する庇護を当然のものと捉えて暗に搾取をしている。

そのようなことが積み重なった結果として恩恵はなくなり、合意形成のためのコストは増え、サンクコストは肥大した。

テストステロンは一般的に男のほうが分泌されることがおおいので自らのうちに攻撃性を飼うことになる。とすれば社会という秩序を生きる上で相当なリスクを常に保持していると言っても過言ではない。それに加えて現在のような社会状況である。

フェミは男性社会を否定するが、男性社会でない社会を構想したことがあるのだろうか?仮にあるとしてもどのようなシステムにするつもりなのだろうか?

性別に関係なくフェアではないことをする人物は存在するだろうが、いままでの男性社会でそれなりの成果を上げてきたのは事実だ。その事実は否定できないだろう。逆に男女比率だけを優先し、プレイヤーとしてしか優秀でない女性を管理職に登用し現場が疲弊した例は事欠かない。

とすれば誰に責任を取らせればいいのだろう?ここはあえて明言しない。以下のもっともらしい文章を添えて終わりとさせていただく


近年、フェミニズムという言葉が社会の至るところに広がっている。しかし、私がそこに感じるのは、理念の普遍性ではなく、特定の語法や態度に対する強い同調圧力である。もともとフェミニズムは、性別によって不当に扱われる人々の権利を擁護する運動だったはずだ。しかし現在、一部の言説は「女性である」という属性自体を道徳的優位性の根拠とし、異なる意見や立場に対する排除の論理へと変質してはいないか。


私は、「男女平等」という理念には賛同する。しかしそれが、「男は常に加害者、女は常に被害者」といった構図に単純化された瞬間から、話は変わる。本来の問題は、制度的な不平等であるはずだが、個人の感情や態度に矛先が向けられることで、本質が曖昧になってしまっているように思う。


さらに、フェミニズムの言説が過度に道徳化し、批判を許容しない空気を醸成していることにも危機感を覚える。反論すれば「無理解」とされ、沈黙すれば「共犯」とされる。このような二元論的な枠組みの中では、建設的な対話は不可能だ。


私がフェミニズムに距離を置くのは、それが「平等を語りながら不寛容を強いる運動」に変わりつつあるように見えるからだ。そして何より、声の大きな一部の運動体が、異なる文脈や生き方を排除する形で「正しさ」を独占しようとする姿勢に、違和感を覚える。

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