第2話:沈む町の輪郭と、その隙間

「うおおおおおお、逃げろ! 騎士団なんて頼りにならねえ!」


足音がやけに響く裏通りで、そんな叫びが重なり合うのが聞こえてくる。

アキラたちが城門じょうもん付近から離れ、教会の方へ向かう道すがら、

すでに至るところに不穏な気配が充満していた。


◇ ◇ ◇


スラム地区。

そこはヴェニラの城壁の外れに広がる雑然とした居住区で、

ボロボロの小屋や破れかけのテントがひしめき合う。

町の中心よりも一段低い場所にあり、近くにゴミ捨て場があるせいか、

鼻をつく悪臭がただよっていた。


「ここには、貧困や病気で苦しんでいる方々が多いのです。

 本来は領主代理の援助が必要なのですが、

 ほとんど支給がなくて……」


そう言って肩を落とすのは、司祭ロフェン。

彼の後ろには若い僧侶が二人、包帯や薬草を抱えている。

定期的にここを巡回しているのだろう。


アキラは思わず鼻を押さえかけるが、ぐっとこらえて周囲を見渡す。


「すごいな……外国のスラムみたいだ。

 やっぱり、どんな世界でも貧困はあるんだな……」


そう呟く声には自嘲じちょうが混じる。

けれど同時に“ここで人助けをすれば評価が得られるのでは?”という打算も湧いてきて、

自分に対して少し嫌気がさしていた。


◇ ◇ ◇


――バタン!


突然、スラムの小屋の“扉”として使われている板切れが荒々しく開き、

痩せ細った男が飛び出してくる。

青ざめた顔で、何かにおびえているのか肩が震えている。


「ちくしょう!、ちくしょう!!!……おまえら、教会の連中か?

 もう遅ぇんだ……あいつは、死んじまった……!」


その声には絶望と怒りが入り交じり、聞いているだけで胸が痛む。

僧侶の一人が駆け寄り「何があったんです?」と尋ねると、

男は荒い息を吐きながら足元の地面を弱々しく叩いた。


「バルトのヤローのせいで俺たちにはまともな仕事もねえし、

 税だけはバカみてぇに高ぇ。

 食い物も薬も足りねえ……だから、病気になった仲間が……死んじまったんだ……!」


嗚咽おえつまじりの声が、スラムの悲惨ひさんをまざまざと突きつける。

アキラは言葉を失った。

アキラが元いた世界でも“社会の暗部”を耳にすることはあったが、こんなにも直接的な惨状さんじょうを目にするのは初めてだった。


僧侶たちは慌てて小屋の中に入り、

まだ生きている患者を救おうとしている。

ロフェンも「私も手伝いましょう」と後を追う。

アキラはその背中を見送るが、胸中は複雑だ。


(何か、手伝えることはないのか……?

 けど俺は医療の知識もないし、火の魔法を少し使えるだけだ。

 治癒魔法なんて、まったく……)


魔物を倒す程度の力があっても、

この根深い苦しみを救うことにはならないのかもしれない――。

自嘲じちょうがこみ上げそうになる。


◇ ◇ ◇


ふと、遠くから“鈴”のような音が聞こえた気がした。

アキラは耳をますが、スラムの路地には雑多なゴミや廃品が散らばり、

猫の鳴き声すらしない。


「気のせい……か」


頭を振り、小屋へ歩み寄ろうとする――

そのとき、視界の端にかすかな甘い香りと“黒いコート”のすそらしきものが見えた気がした。


「……誰かいるのか?」


警戒しながら声をかけるが、返事はない。

角を曲がってみても、人の気配はなかった。

古い木箱が転がり、その上につややかな紫色の花びらが一枚だけ落ちている。

アキラは一瞬、目を奪われた。


(気のせい、じゃないかも。何だこの花……?)


だが、今はそれどころではない。

小屋の中でロフェンたちが呼ぶ声がし、アキラは急いで戻る。


◇ ◇ ◇


小屋の中では、若い女性が弱り切って布団に横たわっていた。

口元から血がにじみ、呼吸も浅い。


「間に合うといいのですが……薬も不足していて、あまり治療に使えなくて……」


司祭の声は沈み、若い僧侶が薬をすり潰して飲ませようとする。

しかし半ば意識のない状態で、口に含むのもままならない。


「くそっ、どうにかなんねえのかよ!

 おまえ、転移者なら回復魔法くらい使えねえのか!」


さっきの痩せた男がアキラへ怒鳴り散らす。

アキラは歯がゆさを感じつつ、言葉を絞り出す。


「悪いけど、回復魔法は使えないんだ。

 剣技や火起こし程度の魔法しか……」


無力感が胸を締めつける。

そんな時、突然“ぎぃ……”と小屋の天井がきしむ音がした。

屋根裏の板が外れかけ、今にも崩れそうだ。


「危ない!」


僧侶の叫びと同時に、アキラはとっさに女性を抱えて外へ出ようとする。


「うおおっ……間に合ええええ!!!!」


全員が一斉に駆け出す。

天井が崩れ落ちる前に、どうにか外へ出られた。

急に持ち上げたことで腰に痛みが走るが、それどころではない。


「おまえ、意外とやるじゃねえか!」


痩せ男も驚いた様子で手伝い、アキラを支える。

直後、屋根裏の板がドサリと落下し、小屋の中を粉々に砕いてしまった。


(危なかった……。咄嗟だったが、最悪な事態にはならなくてよかった……)


だが、外に出ると、ロフェンが慌てて薬の配合を指示しており、

必死に女性の命をつなぎ止めようとしている。

アキラにはそれを見守ることしかできない。


◇ ◇ ◇


周囲を見回すと、スラムの住民たちが様子を見に集まっている。

その顔はどれも血色が悪く、貧困や病、

衛生の悪さといった町の闇が、アキラの目前にのしかかる。


(これをどうすれば……。

 何で俺は回復魔法の一つも使えないんだよ……)


頭がぐらつくような閉塞感へいそくかんを覚えるアキラ。

そこへ、ロフェンが声をかけてきた。


「アキラさん、ありがとうございます。

 とりあえず倒壊には巻き込まれずに済みました。

 彼女は息があるうちに薬を飲ませれば、まだ間に合うかもしれません。

 ……でも、こんな患者さんがあと何十人もいるんです」


「何十人……?」


「ええ。魔物対策も大切ですが、

 このまま貧困や病気が放置されていけば、

 街は内側から朽ちてしまいます。

 領主代理バルト様に何度か掛け合っても、

 糸口が見えないままで……」


気丈に振る舞うロフェンの瞳は、苦悩に揺れている。

アキラは何も言えず、唇をんだ。

自分が思い描いていた“英雄”や“ヒーロー像”が、あまりに遠いことに――。

その現実を思い知らされる。


◇ ◇ ◇


と、その時。

再びあの甘ったるい香りが、アキラの鼻孔びこうをくすぐった。

今度ははっきり感じる。


「っ……あれ、何だ……?」


わずかに風が動き、スラムのさらに奥から“空気がずれた”ような違和感がただよってくる。

アキラは直感で“魔力的な何か”を感じ、視線を走らせるが、そこには誰の姿もない。


(やっぱり、何かいる……? 妙に甘いこの香り、どうもおかしい……)


スラムの住民たちは薬を求めることで精一杯のようで、

この違和感には誰も気づいていない。

アキラは警戒心を高めかけるが、しばらくしても何も起こらない――。


「アキラさん……?」


ロフェンの声でハッとし、アキラは我に返る。


「あ、ああ、なんでもない。

 とりあえず、俺も手伝います。

 やれることを探してみます」


そう言って動こうとした矢先、路地の奥で“不自然な影”が横切ったように見えた。

黒いコートのすそのような、長くなびく衣――。


(さっきから何なんだ……? 黒い男……?)


胸がざわつく。

アキラは皆に「先に行ってて」と声をかけ、路地の奥へ踏み出す。

そこは廃材が雑然と積まれ、湿った臭いが漂う場所。

しかし、角を曲がっても人影はない。

残るのは花のような、甘い香りだけ。


「なんだよ……。俺の勘違いか……?」


それでも胸騒ぎは収まらず、むしろ強くなっている。

“ヤバイ何かが近づいている”と本能が告げているのかもしれない。

――だが、今のアキラには確証もなく、他人に言っても信じてもらえないだろう。

もちろん、闇のどこかで笑っている商人がいることなど思いもよらない。


◇ ◇ ◇


「アキラさん? 本当に何もないんですね?」


背後からロフェンが心配そうに声をかける。

アキラは「ああ、大丈夫……」と返しながら、じっとりと汗ばむてのひらを拭う。


「もし、この町に得体のしれない何かが暗躍あんやくしてたりしたら……

 厄介なことになる前に手を打たないと」


その言葉が半ば無意識にこぼれる。

そして再び、小さな“英雄願望”が頭をもたげる。

町の問題を解決して、称えられる未来。

それが甘い幻想だと分かっていても、そう願わずにはいられない。


(いずれにせよ、やるしかない。

 バルトの圧政やこのスラムの現状を放置したら、取り返しがつかなくなる……!)


思いは熱を帯び、アキラは決意を新たにする。

小さく息を吐いて気合を入れ、僧侶たちのもとへ戻る。

その足元の影が、わずかに闇へ溶け込むように揺らめいた気がした。

甘い香りは、もう消えている。


誰も知らない場所で、数枚の紫色の花びらが舞い落ち、風に流されていく。

黒いコートの裾とともに――静かに、けれど確かに。


(第2話:沈む町の輪郭と、その隙間・了)

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