第18話
■1月1日 夕方、十日町の君島家、座敷
ぐったりとかもったりとか、そんな言葉が似合う座敷の様子だった。大人たちは黙って、おちょこの日本酒をちびりと舐めているばかりだった。子供たちはすっかりおとなしくなり、ストーブのそばでうつらうつらとしている。僕も、お餅を3個まではがんばって食べたから、だいぶお腹が苦しい。このままあおむけになって寝てしまいたい。そんな誘惑と戦っているときに、母がそばにやってきた。
「奏太、病院へ電話してくる」
「そろそろ行く?」
「もう少ししたらね。ここで待っててくれる?」
「うん」
「あと」
「なに?」
母が顔を近づける。え、なに? 耳元で母がささやく。
「胸元隠しなさい」
思わず下を見る。はだけたパーカーから見えるTシャツごしに、膨らむ胸のその先が見えた。
黙ったまま僕はパーカーを引き寄せる。ひどい。見えてるなら先に言ってよ。僕はそんなことを言う母に向かって、べーと舌を出す。母はぷふと笑いながら、廊下のほうに出ていった。
男なのに胸がある。
その不思議な気持ちに蓋をするように、僕は自分の胸に手を当てる。
座敷が少し熱くて、隣の部屋に続く襖を開けた。続く畳から暗闇が退いていく。古い匂いと冷気が僕に吹き抜ける。そこは座敷よりは少し狭い部屋だった。座敷から洩れた光に照らされて、大きな仏壇が見える。昆布を乗せた鏡餅が真ん中にどんと居座り、暗い仏壇の中でぼんやりとお正月のめでたさを主張していた。
僕は灯りをつけず仏壇の前に座る。手を合わせずに、その先にいるかもしれない父にずっと質問を続ける。
どうして僕達を置いて死んだの?
どうして……。
雪の日、病院の窓から降る雪を見つめながら、ベッドに伏せる父は「僕はね。お母さんのことが好きなんだ。だからお母さんがボロボロになるまで看病させる自分が許せないよ」と、僕の小さな手を握って、そう話した。
大好きだからって自分で死を選んだのなら、大好きを続けられるようにして欲しかった。
生きてたら、相談したかったのに……。
僕は畳の上に置いた手をぎゅっと白くなるまで握り続ける。
体が変わっていく。拓真との関係も変わろうとしている。
この家の人にだって、僕が女になることを伝えたら……。
伝えられない。
こんなにもやさしい人達を、僕は困らせてしまう。
僕はどうすればいいの?
教えてよ、お父さん……。
パチっとスイッチが入る音がした。蛍光灯の明かりが部屋を照らす。振り向くと、僕達を呼びに来た女の子がいた。ツインテールを揺らしながら、僕のそばへ歩いてくる。
「あの……」
「うん?」
「聞くの悪いかなと思ったんですけど、どうして男の人の恰好をしているんですか?」
え? えと……。
混乱している僕にその子は言葉を続ける。
「女の子なら女の恰好をしたほうが間違われないでいいですよ。お父さんたち、いないところで彼女を薦め合ってたし。誰それさんの娘がいいとか」
「それは……」
「私まで言われたんですよ、もう。佐伯さんとこの息子とはどうとか聞かれて。私はそういうの嫌いです」
僕は握り締めた手を開く。それからその場から逃げるだけの言葉を口にする。
「僕は男なんだ」
女の子は視線を何度も往復させて僕から何かを探し出そうとする。それから手を口に当て、大げさに驚いて見せた。
「え、嘘。男の人なんですか?」
「うん……」
「すごい。アイドルかなにかやってます? きっと癒し系ですよね」
「普通の高校生だよ」
「どうしてそんなに女の子ぽいんです? 化粧品とか使ってます? 首筋なんかすごくきれいだし、髪の毛サラサラだし。まつ毛なんか私よりバサバサしてて、めっちゃうらやましい」
「ごめん……。もう出ないといけないんだ」
「ええーっ」
「お母さん、お医者さんやってて、これから病院に戻らないと。だから、また今度ね」
「なら、奏太さんだけでも、ここに泊っていけばいいじゃないですか。さっきの本がいっぱいある部屋とか片せば寝られますよ」
「そういうわけには……」
「あ、写真撮ってもいいですか、ちょっとびっくりしちゃって。友達に自慢したいんです。ほら、体を寄せてもらっていいですか?」
女の子の腕が僕へと伸びる。その腕をじっと見つめる。
僕に触れようとしている。何も知らない僕の体に……。
スマホを手にしたままの母が、僕をかばうように近づく。女の子に向かって、やさしいふりをして、きつくたしなめるように言う。
「ごめんね。もう行かなくちゃ」
「もうちょっとだけ! 次、いつ会えますか? 友達呼んできますから!」
その子はぴょんぴょんと跳ねるように喜んでいる。
友達? どうして? どうして僕を見せたいの?
保健の先生に言われたあの日の光景が頭にちらつく。
僕が化け物だから、見せたいの?
変わった見た目だから?
変わった体だから?
だから……。
この子は悪気があって言ってるわけじゃない。僕の体のことも知らせていない。好意を持ってくれているだけだ。こうなるのは当たり前なのに、それなのに僕はどうしようもなく追い詰められる。
「奏太。もう行かないと」
「うん」
母に促されて、僕は女の子に「ごめんね」と、心に吹雪く暗闇の中から伝える。
■1月1日 夕方、十日町の君島家、玄関
見送りに来た女の子は一段高いところから、スノーブーツを履いている僕を見下ろしている。
うつむく僕には、女の子のかわいらしい靴下しか見えない。
母が心配している。「奏太。早く行こう」と声をかけられる。
「僕は……」
あきらめたように言いかけたとき、紙袋をたくさん手にした綾子叔母さんがにぎやかにやってきた。
「奏太君。これ、おみやげね。あとお餅。さっきののし餅にしてある。まだ柔らかいから、帰ったら平らなとこに置いといて。こっちは、香奈枝さんにね。日本酒。今年の天神拍子はいい味してるから。職場の人にもふるまって」
渡された紙袋はずっしりと重い。抱えるようにしてそれを持つと、僕は「ありがとうございます」と頭を下げる。酒瓶が6本も入っている大きな袋を渡されて、母はちょっと困っていた。
雅英叔父さんがやってきた。女の子を見るなり、不思議そうにたずねる。
「どうした、雅美」
「奏太さん、かっこよくないですか? ほんとアイドルみたい。だから、また会いたいって約束していたんです」
「おまえは色気づいてないで勉強しろ」
「ええーっ。お父さんにも言われてないのに」
「だいたいな、奏太はおまえのおねしょを片づけた奴だぞ。覚えてないのか?」
「え? あのときのお兄ちゃん? 嘘。ぜんぜん見えない……」
僕も思い出した。布団の上に立ったまま冷たいと泣いていた女の子だ。和雅叔父さん達がお酒飲んで寝ていたから、風呂場に連れていき、綾子叔母さんといっしょに布団を片した覚えがある。
ぜんぜん見えない。それは僕も同じ気持ちだった。
綾子叔母さんが気付いたように女の子へたずねる。
「奏太君の高校、六日町だから。そっち受験したら?」
「私バカだから無理です。あんな偏差値高いとこ」
そう即答して女の子はむくれる。
綾子叔母さんが、僕のほうへ顔を向ける。
「奏太君は、大学どこ行くの?」
「まだ決めていなくて」
「新大に行ったらお父さんの後輩だね」
新大は、新潟大学のことだ。父はそこの人文学部にいたと、母から聞かされていた。
「高校もお父さんと同じ所へ行けたんだから、がんばらないとね。おばさんたち応援するから」
「はい」
「またね。いつでも遊びに来てね」
雅英叔父さんが玄関の壁にかけてあった分厚い防寒着を着る。長靴に足を入れながら、僕達に言う。
「綾子は持たせ過ぎだ。ちょっと貸せ。車まで持っていくの手伝う」
母から袋を抱え込むようにしてさらっていく。そのまま玄関の扉を勢いよく開ける。
僕は何度も頭を下げながら、外に出た。白い息が風にたなびく。少しゆるんだ風は山々の木々に遮られ、ここまではもう届かない。
車まで歩いて行くと、まだそんなに時間が経っていないのに、車の屋根に雪が積もっていた。母がドアの上の雪を少し払って車を開ける。中に入ってエンジンをかける。車がぶるぶると震えだす。僕が助手席の後ろの扉も開けると、雅英叔父さんが座席の下に袋を置いた。
「転がっちまいそうだな。なんかないか?」
「後ろにブランケットがある」
「いいのか?」
「どうせ洗うし、使ってもいいから」
雅英叔父さんが手を伸ばす。ふんわりとしたブランケットを酒瓶と座席の間に詰め込んでいく。それを見届けてから、僕は助手席の扉を開けた。屋根の雪がぽたりと席に落ちてしまった。それを手で払って乗り込むと、雅英叔父さんが後ろのドアを閉めてくれた。
ドアをバタンと引き、シートベルトを締める。ところどころ雪で覆われたフロントガラスに、前を横切る雅英叔父さんの姿がぼんやりと見えた。
母がドアの窓ガラスを開ける。雅英叔父さんが顔を出す。
「気をつけて帰りな」
「ありがとうございます。今年もよろしくお願いします」
「ああ、困ったらすぐ連絡くれ。なんとかすっからよ」
「はい。こちらこそ」
「なあ、香奈枝さん」
「はい?」
「あいつは、雅史は幸せだったと思う。香奈枝さんといっしょになれて。俺はそう思うようにしている」
「ありがとう……ございます」
母が頭を下げる。下げたままでいる。雅英叔父さんがあわてだす。「いや、頭あげてくれんか。頼むから……」とおろおろしだす。それを聞いた母が頭をあげる。瞳からあふれるものを指で拭う。
「いえ、うれしいんです。ここはいつでも私に優しいから」
泣き笑う母を見て、雅英叔父さんが、まるで父のように言う。
「そんなの当たり前だろ。家族なんだから」
母の後ろ姿を見守る。きっとその目には、もう雪は降っていないのだろうと思った。
綾子叔母さんももこもこした赤いダウンコートを着て雪の中をやってきた。
僕達は何度も「ありがとうございます」、「また来ます」、「今度は長居できるようにします」と言って、やさしい人たちに別れを告げた。
車が動きだす。見送られる姿を雪に凍る窓から見ながら、僕は座席に深く身を預ける。
「みんなやさしかったね、お母さん」
「私は心苦しいよ。お父さんを助けられなかったことをずっと悔やんでる。そのことを君島の家のみんなは、わかってくれている」
「お父さん、死ぬことなかったのに……」
雪を抱えた黒い木が何本も通り過ぎた後、母は自分を説得するように言った。
「いずれ死ぬのは、お父さんにはわかっていた。私が介護と勤めで忙しくても、私はお父さんが好きだったのに。お父さんはそのことがわかっていて、わからないふりをしたんだ。私達を生活の苦しみから助けようとして、そうしてしまった」
車が少し弾み、雪の間から黒いアスファルトが見える道へと出る。母が思い詰めた声を出す。
「奏太。奏太もわからないふりをしないで欲しい。お母さんはずっと心配している。嫌なら嫌と言いなさい。好きなら好きと言いなさい。自分で考えすぎて取り返しがつかなくなる前に」
「わかってるよ」
「雅美って子、いろいろ聞かれて嫌な思いをしたでしょ?」
「だって、それは……。僕が体のことを教えていなかったからだし」
「これからもああいうことが起きる。体のことを話したら余計増えていく」
「そうかもしれないけど……」
「奏太。東京へ行こうか?」
僕は驚いて母へ振り向く。ハンドルを握った母は、表情を変えず、まっすぐ前を見つめていた。
「引っ越そうか、ということ。越後湯沢にいたら、ああいうことがずっと起きる。お母さんもいろいろ言われて、東京へ出て楽になったから。そのほうが奏太の気が楽になるのなら……」
僕は助手席のシートに深く身を沈める。ずるずると体が下がる。シートベルトに膨らんだ胸が締め付けられる。
「なんで、そんなこと言うの……。お母さんだって、嫌なら嫌って言ってよ……。そんなの嫌でしょ、お父さんと君島の家から離れるなんて……」
「奏太。私は奏太が幸せなら何でもいい。それだけだから」
「そう言ってお父さんは死んだんだよ……」
道に迫る雪の壁が高く見える。前を行く車はひとつもない。
「こめん、奏太」
「ううん」
「もう。お父さんがいてくれたら、良かったのに」
「お母さん、お父さんに叱られると思う」
「そうだね。お父さんは良く私に怒ってくれた。そんなふうに考えなくていいって。懐かしいな、もう……」
みんなやさしい。
なのに、すれ違う。
僕達はいつもそうしてしまう。
いつでもそうしてしまう……。
コートにいれていたスマホが震える。ポケットから取り出したスマホには、拓真から「あけましておめでとう」の文字が映されていた。
「遅いよ、拓真……」
そうつぶやいて、僕はスマホをぎゅっとと抱き締めた。
車が右折すると越後湯沢へと続く大きな道に出た。トンネルが近づいてくる。壁の点々とした白い灯りが、見えない暗闇の向こうへと僕達を誘う。
帰りたい。父が生きていたあの日にも、拓真がいる電車の席にも。このトンネルの先がそんな場所であることを、僕は暗闇の中でずっと願う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます