第2話「研究施設の静寂」

研究施設の建物は外観こそ無機質なコンクリート造りだが、内部は想像以上に整然としており、どこか近未来的な趣があった。白く広い廊下の床には、光を反射してわずかに青味を帯びるコーティングが施され、歩くたびに足元からかすかな反響音が生まれる。壁際にはパネル式の案内が設置され、フロアごとの区画が地図とともに表示されている。いくつもの監視カメラが天井に埋め込まれ、訪問者の動きをどこか冷ややかに見つめていた。

 高峯理久たかみね・りくは、先ほど勝峰かつみね岳志に説明されたとおり、まずはメンテナンス対象のアコアが格納されている区画へと足を運ぶ。途中、ちょうど同じエレベーターで降りてきた桜来さくらい凛花りんかの存在がやはり気にかかったが、彼女は何やらタブレット端末を操作しながら、先に廊下を進んでいく。

 廊下の突き当たりにはセキュリティゲートがあり、係員の認証を受けてから通過する仕組みになっていた。理久は首から下げた社員証を示し、ゲート横の生体認証パッドに指先を当てる。すると薄青い光が指紋と血流を読み取ったあと、穏やかな電子音とともに扉が開いた。


「……ずいぶん厳重だな」


 理久が小さくつぶやくと、ゲートの先で待っていた勝峰が振り返った。


「ここでは最新型のアコアを大量に管理しているらしいからな。何か起きたら大損害だろう。ああ、今日のうちに終わる作業だから、あまり気負わなくていいぞ」


 にこやかに笑う勝峰に、理久は形だけうなずく。確かに作業そのものは難しいものではない。ソフトウェアの更新と、いくつかのハードウェア点検が中心。ただ、理久にとって“アコア”自体が気重な存在であるのは言うまでもなかった。

 ゲートを抜けると、大型のカプセル状コンテナが左右に整然と並んだ広々としたフロアが広がる。一つひとつが人型ロボットを収納できるサイズで、半透明のカバーの向こう側には、稼働停止状態のアコアたちが眠っているようにも見える。


「うわ、壮観ですね……」


 思わず声を漏らしたのは、理久の後ろからついてきた別のメンテスタッフだ。彼の言葉どおり、通路の向こうまでずらりと並ぶカプセルは圧巻というほかない。まるで近未来映画のワンシーンに迷い込んだようだ。


「よし、じゃあ手分けしてコンテナの外部インターフェイスをチェックしていこう。理久は……そうだな、Aブロックを頼む。俺はBブロックにいるから、何かあったら呼んでくれ」


 勝峰がそう指示を出し、各スタッフが散っていく。理久は左奥にあるAブロックの列へ近づき、カプセルの横に取り付けられた制御パネルを起動する。アコアの管理IDやファームウェアのバージョン情報がずらりと表示され、どれも最新のものになっているかどうかを確認するのが、まずは理久の役割だ。


 (まあ、こうしてデータをチェックするだけなら、アコアと直接コミュニケーションを取る必要はない。助かった……)


 胸の奥で小さく安堵しながら、理久は1台1台、タブレット端末をかざして読み取っていく。チェックマークが緑色に点灯すればOK。なにか不具合があれば表示パネルが赤くなる。幸い、今のところは問題なしだ。

 照明の安定した白い光と、エアコンの送風による淡々とした空気の中、淡々と進む作業。施設全体が至って平和そのもので、緊張感はない。ふと、理久はこの静寂を妙に心地よいと思い始めていた。普段は都市部のノイズや雑踏にまみれて仕事をしているせいか、こうした静けさには独特の落ち着きがある。


 「……次、こっちか」


 さらに奥へ進むと、人の気配があった。先ほどエレベーターで一緒になった凛花だ。彼女はスーツの裾をたくし上げるようにしてしゃがみ込み、カプセル下部の配線か何かを覗き込んでいる。


 「ここ、なんか配線が乱雑じゃない? 誰が工事したのかしら」


 ぼやきまじりに独り言を言う凛花を見て、理久は少し意外に思った。もしかすると、法令監査という肩書きは建前で、実際にはこうした技術的な知識もあるのかもしれない。


「……どうかしました?」


 理久が声をかけると、凛花は振り返り、小さく息をつく。


「ああ、あなたか。ほら、これ。床下配線の保護チューブが剥き出しになってるの。こんな状態だと、何かの拍子にトラブルを起こすかもしれないでしょう?」


 そう言って人差し指で示した箇所を見ると、確かに保護チューブが少し破れている。むき出しになっているコードには特殊な樹脂が覆われているが、乱暴に踏まれると断線の原因になりそうだ。


「なるほど……施設側に報告したほうがいいですね」

「そうする。いちおう私も工学専攻だから、こういうのが気になっちゃうのよ。あまり触ると問題にされるから、自己判断じゃ直せないけど」


 凛花が腰を上げて、スーツの裾を整える。大人っぽい顔立ちと落ち着いた言動のせいか、ぱっと見は社会人に見えるが、あとで年齢を聞けば意外と若かったりするのだろうか──そんな疑問が理久の頭に浮かんだ。


「そういえば、法令監査って言ってましたよね。工学専攻なのに?」


 思い切って尋ねてみると、凛花はわずかに目を細める。


「ええ、まあ。私は“遺伝子コーディネート枠”で大学に入ったの。工学を専門に学んだけど、そのせいでいろいろ制約があるのよ。アコアの取り扱いには厳しい規定があって、コーディネートされた人間は所有すらできない。あなたも聞いたことあるでしょう?」


 もちろん、理久は知っている。社会科の授業やニュースでも取り上げられる、今の時代特有の差別……といっても法律上は「区別」とされるものだ。遺伝子コーディネートされた人々は、高い知能や身体能力を与えられる代償として、国家や企業からの強い監視や規制の対象となる。特にAI技術やロボット関連では、改竄かいざんや悪用を防ぐために厳しい制限が設けられているのだ。


「まあ、いろいろ面倒ですよね。ご苦労さまです……」


 それくらいしか返事が思いつかず、理久は曖昧に言葉を濁す。凛花もそれ以上は突っ込んでこない。ふたりの間にやや微妙な空気が漂ったところへ、突然インカムから勝峰の声が入った。


 「おーい、理久。そっちはどうだ? 異常なし?」


 このフロアのスタッフ全員と繋がる通信だろう。理久はタブレットのスイッチを押して応答する。


「今のところ大丈夫です。外部インターフェイスに問題なし。凛花さんがちょっとした配線トラブルを見つけましたが、大事にはならなそうです」

「そうか。こっちも順調に進んでるよ。いまのうちに昼メシのことを考えようかと思ったけど、施設のカフェテリアはさっき行ったしな……まあ、定刻で終われそうだ」


 勝峰が脳天気そうな声で笑っているのを聞きながら、理久は少し肩の力を抜く。どうやら大きな不具合は見当たらないらしい。


 「了解です。こちらも作業を続けます。何かあれば連絡を……」


 次の瞬間、施設全体がぐらりと揺れた。ほんの一瞬だけだったが、空気が押しつぶされるような重圧感と、床下から突き上げる震動をはっきりと感じ取る。


「……今の、なんだ?」


 凛花が目を見開き、理久と視線を交わす。勝峰の声がインカムから消え、代わりに「ジジッ……ジッ……」と不穏な雑音が混ざった。


「メンテスタッフのみんな、聞こえるか? いま施設のほうでアラートが……げほっ、なんだこれ、煙……」


 勝峰が何か叫んでいるようだが、ノイズのせいで聞き取りづらい。すぐに高周波の警報音がフロア全体に鳴り響き、非常灯が赤く点滅しはじめる。


「ど、どういうことだ?」


 理久は思わずカプセルの横に手をつき、よろめきながら周囲を見回した。警報は容赦なく耳を撃ち、非常口付近では警備員が慌ただしく走り回っている。


「爆発……? それとも地震か何か? でも今はそんな予報は……」


 凛花は明らかに動揺している。彼女もまた状況を呑み込めていないようだ。施設内の放送スピーカーから、合成音声がアナウンスを流し始める。

「注意。注意。施設内で異常が検出されました。関係者は避難経路を確保し、速やかに安全区画へ移動してください。繰り返します……」

 しかし実際にどう行動すればいいのか、具体的な誘導はなされない。そもそも安全区画とはどこなのか。理久は焦燥感を覚える。


 (勝峰さんはどこにいる? ほかのスタッフは? まさか死傷者が出てるんじゃ……)


 悪い想像ばかりが頭を駆け巡る。すると、凛花が端末を操作しながら険しい顔つきで言った。


「通信が乱れてる。外への連絡も繋がらないみたい。電波妨害か、施設のどこかがショートしてるのか……」

「停電になってないだけマシ、か。……このままだと、外部から救助も来ないかもしれない。まずは合流しないとな」


 理久はそう言って歩き出す。凛花もそれに続くが、ふたりとも落ち着きを失いかけているのがわかる。周囲を駆け回る職員たちも混乱しており、誰もが自分の身を守るだけで精一杯の様子だった。

 カプセルが並ぶフロアを走り抜け、中央の廊下へ出る。そこにはオフィス風の部屋がいくつもあるが、電気は生きているものの、警報灯が赤い影を落としているため不気味な雰囲気だ。まるでB級ホラー映画のセットのようだ、と理久は思う。


「こちら勝峰だ! 聞こえるか、誰か……」


 曲がり角を折れた先で、ようやく勝峰の声がはっきり聞こえた。奥のほうで煙のようなものが立ちこめており、勝峰はタオルで口元を押さえている。


 「勝峰さん! 大丈夫ですか? ケガは?」


 理久が駆け寄ると、勝峰は咳き込みながら首を振った。


 「いや、俺は平気だが……そっちも無事でよかった。しかし何が起きてるんだかわからん。火災らしきものが確認されてるが、ガス爆発なのか、セキュリティの誤作動なのか……」


 彼の後ろにはメンテスタッフの一部が集まっているが、人数が少ない。ほかの仲間は散り散りになってしまったのか、あるいは別ルートから避難をしているのかもしれない。

 勝峰がインカムを叩きながら言う。


「施設の幹部連中とも連絡が取れん。非常口はどこもロックされてるって話だし、下手に動いても閉じ込められるだけだ。いま緊急電源が作動してるせいで、セキュリティシステムが自動的に封鎖したらしい。くそっ、なんてこった……」


 研究施設が非常事態になったとき、外部への流出を防ぐために厳重ロックがかかる。これは情報漏えい防止のための仕組みだと聞いたことがあるが、いまの状況では逆に人間たちが自ら囚われの身となる皮肉な事態を招いている。


 「とにかく、ある程度まとまって行動するしかないですね。火元や爆発の原因を確かめないと……」


 理久がそう提案し、凛花も無言でうなずく。勝峰が周囲を見回しながら、「脱出できそうなルートを探さないとな」と苦い顔をした。

 だが、そのとき不意に奥のほうから悲鳴があがった。


「……きゃああっ!」


 女の悲鳴だ。スタッフの誰かだろうか。理久、凛花、そして勝峰は目を合わせ、ほぼ同時にその声のする方向へ走り出す。煙が漂う廊下を曲がり、さらに奥へ進むと──。

 そこは小さなラウンジのようなスペースだった。簡易ソファや自販機が並ぶ場所で、ここまで来る人は少ないのか、照明が暗い。先ほどの悲鳴は止んでいたが、代わりに聞こえたのはか細いすすり泣きのような声。


「おい、君……大丈夫か?」


 勝峰がソファの向こうに近づく。すると、そこにはパニックを起こした様子の女性スタッフがうずくまっていた。震える指先で壁際を指し示す。


「し、死亡事故……人が……」


 吐き気をこらえるように声を絞り出した彼女の向こうに、倒れている人影が見えた。それは男性の研究者風で、頭から血を流している。すでに瞳は虚空を見つめ、まったく動かない。周囲にはガラス片や金属製のラックが散乱し、事故に巻き込まれたか何かの衝撃で倒れたのだろう。

 理久は息を呑む。まさか本当に命が失われているとは……ここまで逼迫した事態だとは思わなかった。勝峰が苦い表情で胸元に手を当て、「なんてことだ……」と呟く。

 と、その傍ら、床にうずくまるように倒れているもうひとりの存在に気づいた。小柄な少女──いや、よく見ると外見は少女でも、その肌の質感や関節の形状が人間とは少し違う。


 「こ……これは、アコア……?」


 凛花が驚き交じりの声をあげる。倒れているアコアは動作停止しているようで、うっすらと目を開いているものの、うんともすんとも言わない。隣で事切れている男性と、彼女はもしかして持ち主と所有アコアの関係だったのかもしれない。

 驚くべきことに、そのアコア──まだ幼さの残る少女型──の顔にははっきりとした表情が宿っている。泣きじゃくったように頬を濡らす涙の跡まであるではないか。もちろん本物の涙ではなく、人工皮膚の下に仕込まれた潤滑液がにじみ出ているのかもしれないが、それにしてもまるで本物の人間のように見える。


 「……アルマ……」


 小さな名札が胸元に付いていた。アルマ。これが彼女の名前なのだろう。か細い声でそれを読んだ凛花は、無意識に手を伸ばす。勝峰が倒れている男性の脈を確認するが、首を左右に振って、「ダメだ、もう……」と唇を噛んだ。

 理久は背筋が冷えあがるのを感じながら、この惨状を見つめる。まるでかつて自分が見た“瓦礫の記憶”の再来のような光景だ。あのときと同じ匂い、同じように動かなくなったアコア。心臓が締めつけられるような思いを抱えつつ、床に片膝をついてアルマの顔を覗き込む。


 「こいつ……動くのか? 故障か? それともケガをしているのか……?」


 問いかける相手が機械だという事実が、今の混乱に拍車をかける。するとアルマのまぶたがわずかにピクリと動いた。瞳が理久のほうをとらえる。


 「…………マ……スター……」


 か細い声。ほとんど息を漏らす程度の響きしかないが、それでも聞こえた。アルマは死んだ持ち主のほうへ視線を移すように、首をなんとか動かそうとする。だが稼働限界なのか、それ以上は続かずに停止する。

 凛花がアコアの構造に詳しいのか、少し脈拍のような部分を調べる仕草をする。もちろんロボットなので人間の脈拍はないのだが、基幹電源の稼働状況を確認する要領で軽くフレームを触れてみるらしい。


 「……もしかしたら、ソフトウェアか回路がショートしただけで、修理すればまだ動くかもしれない。だけど……アコアの正式オーナーが死んでいると、再起動のための認証が問題になるのよね……」


 見上げた凛花の目は複雑な色を宿していた。この非常事態に、アコアの所有権限を気にしなければならない現実。まさに法律が形骸化しないよう厳密に運用されている証拠だろう。

 そこで理久は、この施設が抱える矛盾をまざまざと感じる。ひとたび事故が起きれば、人の死も含めて何もかもが混乱する。このアコア──アルマも、持ち主を失ってなおこうして機能不全のまま放置されてしまうのか。


 「今はそんなこと言ってる場合じゃ……」


 そう思う理久だったが、凛花は何か考え込むように唇を噛んでいる。やがて意を決したように彼を見つめた。


 「ねえ、あなた。もしこの子が動けば、施設のセキュリティを解除できるかもしれない。アコアには内部アクセスの機能があって、設備と連動できるタイプもいるわ。ここで研究されてるようなハイエンドアコアなら、十分可能性がある」


 理久は思わず言葉を失う。彼女の言うことは最もだ。だが、先ほど自分で言ったように「そんなこと言ってる場合じゃない」気もする。しかし凛花は言葉を続ける。


 「私は技術的に修理できる。工学は専門だから。でもね、遺伝子コーディネートされた人間は、アコアの正式な権限を持てない。だから、もし再起動させようとすると、あなたのような“通常枠”の人間のマスター認証が必要なのよ」


 暗に「あなたが協力してほしい」と言っているのだ。勝峰が険しい顔で聞いているが、これを拒否したところで状況が好転する保証はない。むしろ、彼女の提案は現状を打破できる手段のひとつかもしれない。


 「……要するに、君が直すから、俺がマスターになって再起動させろってことか?」


 理久が低い声で確認すると、凛花はうなずき、「そう」とはっきり言い切る。


 「このままだと、私たち施設から出られないかもしれないわ。電源が落ちたり、火災が広がるかもしれない。避難ルートも封鎖されてるし、どうすればいいか誰も分からない。だったらアコアを使うしかないでしょう? ……悪い取引じゃないと思うわよ」


 取引──その言葉に、理久は思わず顔をしかめる。火急の事態でさえも“取引”と表現するあたり、彼女の性格の一端が垣間見える。

 勝峰は困惑した様子で首を振る。「だがなぁ、アコアのマスター認証ってそんな簡単にいくのか?」


 「ここには技術用の端末もあるし、多少のバイパスをかませれば可能よ。問題は法的に許されるかどうかだけど……今そんなこと言ってられないでしょう?」


 凛花の言葉は辛辣だが、的を射ている。この異常事態を乗り越えるために違法行為をするかどうかという選択肢。勝峰は逡巡しているが、理久のほうはもっと大きな問題を抱えていた。


 (アコア、か……。俺がマスター? そんなもの、俺ができるわけがないだろう……)


 幼い頃の記憶がフラッシュバックする。瓦礫の中で壊れたアコアを見つめていたときの、あの絶望感。自分を助けてくれなかった機械の象徴のように思えてならない存在を、なぜ今さら自分が所有しなければならないのか。

 しかし、もしここで拒否すれば、自分も勝峰も、この場所に閉じ込められたまま命の危険にさらされるかもしれない。それに、床に倒れているアルマの姿を直視すると、不思議な感情が沸き起こってくる。あのときの壊れたアコアとは違い、まだわずかながら動こうとしている。


 (もしかしたら、こいつは本当に自分の意思で動けるのかもしれない。前の持ち主を失ったことが、こいつにとってはどんな意味を持つのか……)


 理久が黙り込んでいると、凛花はもどかしげに口を開いた。


「早く決めて。私が直して、あなたがマスター承認して……それでここから脱出できたら、このアコアを私に譲ってほしいの。いいでしょ?」

「譲る……?」

「そう。だって私はコーディネートだから、正式に所有者にはなれない。でもあなたからの“形だけの譲渡”なら、なんとか方法があるはず。もっとも、こんなこと法律は許してくれないけど……」


 理久は逡巡の末、小さくうなずいた。そうするしかなかったのだ。


「……分かった。ここを生きて出られるなら、それで構わない。ただし、こいつが本当に動いてくれればの話だが……」


 凛花の唇がわずかに弧を描く。勝峰は「大丈夫かよ」と不安そうに訊ねるが、理久は強がるように無言で立ち上がる。

 アルマを横たえている床を軽く片付け、凛花が早速修復作業を始める。手際よく工具を取り出し、人工皮膚の継ぎ目を開いて内部の基板を確認していく。まるで手術シーンさながらだ。勝峰は気まずそうに目を背けながら周囲を見張り、理久は腹の底に渦巻く忌まわしい感情を抑えこむように静かに立っている。


(本当にこいつ、直るのか? それに、起きたとして……俺がマスターなんて、受け入れてくれるはずがない……)


 事実、アルマは断片的にしか動けない状態のときにも、「マスター」という言葉を口にしていた。それは紛れもなく、既にこの世を去った男性のことだったのだろう。彼女がその喪失を受け入れられるのか、理久には分からない。


 ──やがて、凛花がひとまずの修復を終え、慎重にパネルを閉じる。そしてアルマの頭部横にある認証リーダーに理久の端末をかざした。


 「所有者認証を実行します。名前は……高峯理久、IDは……登録完了。再起動プロセスに入るわよ」


 凛花の指がキーを押すと、アルマの身体がわずかに震えた。電力が通っていく音が微かに鳴り、瞳の色がぼんやりと光を帯びはじめる。


 ドクン、と理久の心臓も跳ね上がった。再びアコアを“起動”させるなんてこと、今まで想像もしなかったからだ。少年時代のトラウマが頭をもたげ、息苦しささえ感じる。


 アルマはゆっくりとまぶたを開き、そして口を開く。か細いが、はっきりとした声だった。


 「……マスター。ボクの……前のマスターは……どこに……」


 首をかしげながら視線を巡らせるアルマ。その瞳に、血を流して倒れたままの男の姿が映りこむ。彼女は一瞬息を呑んだように見えた。ロボットであるにもかかわらず、その表情には間違いなく動揺が走っている。


 「貴方は……違う……マスターじゃない……!」


 次の瞬間、アルマは理久を拒絶するように手を振りほどき、背をのけぞらせる。そのしぐさはまるで幼子が必死に大人から逃れようとするようだった。


 凛花が慌てて肩に手を置き、「落ち着いて。あなたのマスターは……もう……」と伝えようとするが、アルマはかぶりを振る。


 「いや……いやだ! ボクのマスターはひとりだけ! あなたたちには従わない……!」


 心をえぐるような声が、その場に響き渡る。勝峰も言葉を失い、理久は床に置いた端末をぎゅっと握りしめる。


 (そうだ……無理もない。こいつのマスターは、もう死んじまった。なのに俺が今さら新しいマスターだなんて言っても、受け入れられるわけがない……)


 苦い感情が胸を支配する。自分自身、アコアを所有するなんて考えたくもなかった。だが、アルマはこのまま絶望の淵に立った


ままなのか。そもそも人間の死を、彼女はどう理解しているのか──。


 研究施設の静寂は、警報のノイズと赤い非常灯の点滅によって破られ、あたりは混乱の只中にある。そのうえ、持ち主を失ったばかりのアコアが必死に抵抗し、悲痛な声をあげる様は、理久たちの心にも重くのしかかる。


 暗いラウンジの一角で、死者と生者、そして“心を持つ機械”が入り混じり、どうしようもない悲哀に包まれた。その先には道なき道が続いているかのようだった。果たして理久たちはアルマを説得し、この施設から脱出できるのか。それとも……。


 非常口ランプの赤い光が、アルマの瞳に反射して儚く揺れる。理久は息をのみ、ただじっとアルマを見つめ続ける。


 ──この孤独なアコアを、いま助けてやれるのは誰なのか。ここから始まる運命を、彼らはまだ知らない。

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