裏付けなしの思想書

南 瑞朋

言葉遣いの正しさ

 作品を作っているとしばしば、「正しい言葉」ではない言葉を使ってしまう。大体は「作品の表現」としてわざと間違ったりするのだが、たまに普通の間違いをしてしまう。「琴線に触れる」と「逆鱗に触れる」を間違った事がまさにそれなのだが、意外と間違う人が居るらしく、どっかの掲示板か何かでスレが立っていたらしい。

 少し前にそれのまとめを読んで、心に刺さったと同時に、自分の考えが出てきた。ので、ここに記しておく。話半分に受け止めて貰って構わない。


 「言葉の正しさ」とは何だろうか。そもそも、「言葉」とは何だろうか。

 言葉は、言うなれば「人間の鳴き声」と考えている。他の動物が発する鳴き声とは何が違うのか、と言われれば「わからない」としか返せない。他の動物にとっての鳴き声も、人間の鳴き声も、どちらも「意思疎通」が根底にあって、仲間に情報を伝える事を重点に置いている。それが高度に発達して、というよりはその余裕が出来て、抽象的な話が出来る様になった。それが人間の言葉だと考える。動物にとっては、鳴き声を出す事について、「天敵に見つかる」というリスクを孕んでいるが、大集団で行動出来る様になった人間にとって、それはさほど大きな問題にはならなかった。だからこそ、情報を伝える事、ひいては「情報」に価値が生まれて、言葉や言語が生まれていった。

 

 それを踏まえて、「言葉の正しさ」を考えてみよう。結論を言うと、それは「情報が伝わる事」だと考えている。

 言葉は「情報の伝達」に使うものであって、「丁寧さ」「古さ」といった尺度は、あくまでも「芸術点」である。

 平安時代に使われた語彙を用いて現代人と意思疎通を図ろうとすれば、現代人は自分から離れていくし、その逆もまた然りだ。今の語彙で1000年後の人間と話そうとすれば、多分離れゆくだろうし、逆もまた然りだろう。

 言葉は伝わればいいのであって、「慣用句の意味が違う」とか「敬語を使え」とか、目くじらを立てるのは酷では無いだろうか。

 と言っても、どうして廃れないのかの言われれば、権威やら何やらが複雑に絡み合っていて、どうにもこうにも説明がつけられない。ただ、敬いたい人に敬語を使いたいと思っている。気性の荒い人だったりには使いたくないからタメ口で接したいものである。


 そういえば、「言語は生き物」だと言えば、一部の人は、「国語が出来ない人の戯言」と片付けるらしい。この言葉は、中学時代に国語を担当していた先生が言っていて、今でも覚えている。こう批判されると、その先生を侮辱されたように感じて、どうしてか腹が立ってしまう。どうにかしたほうがいいのだろうか?

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