第42話 コールドコースト

 翌朝、おにぎりの虜となった魔王に米の炊き方と握り方を教えることとなった。ゲームをクリアしたことで経験値と好感度から解放され、俺は魔王に対する恐怖心を、雪村さんは俺に対する恋心を感じなくなった。


 ようやく直視できるようになった魔王は、大きな体格と下あごから突き出た鋭い牙を持つものの、垂れた目がつぶらで可愛らしかった。喋れないという設定を補うためか、表情が豊かだ。今は鍋から細く上がるごはんの甘い香りを、うれしそうに嗅いでいた。昨日あんなに怖がっていたのが、馬鹿みたいに思えてくる。


「考えたんだけど、雪村さん。魔力を消費し続ければ、俺らが食べても平気なんじゃない?」


「まだあきらめてなかったんですか?」


 雪村さんは魔王と交渉し、来年度の米と引き換えにコールドコーストに通じるゲートの管理を依頼した。一度は閉じたゲートだったが、長年にわたり開いていたことで、魔界との道ができやすくなっている。魔王が米を盗んだ時も、同じ場所にゲートを開いて行き来したそうだ。


 今後ゲートが開かれないとも限らない。それならば魔王の管理下でゲートを開くほうが安全だ。魔王も定期的に米が入手できれば、ふたたび妖精界への侵攻計画を進めることはないだろう。


 ごはんを蒸らし終え、魔王が鍋のふたを開けると、香りが俺たちのもとにも届いてきた。二度のおあずけは少々つらいものがある。


「俺の唯一の未練だからな~」


「お米がですか?」


「うん。前に親父と仲違いした、って言ったろ?」


 俺は横目で雪村さんを見上げた。


「ええ。移住なさったんでしたよね?」


「あれね、続きがあるんだ。死ぬ三日前ぐらいだったかな? 親父から米が送られてきだんだ。何種類も」


 油性のマジックペンで銘柄が書かれたビニール袋に、米が一合ずつ入っていた。全部で五種類ほど。箱の底には一枚の便せんがあり、親父の字でこう書かれていた。


――米の栽培を始める。どの品種がいいか、食べて電話しろ。


 俺はインフルエンザから回復した後も、何かと理由をつけて親父に連絡できていなかった。どうせなら食べ比べしようと、電子レンジで米が炊ける容器を個数分注文した。


「次の週末に、なんて思わなきゃよかった」


「まさか」


「うん。食べられなかった」


 あの日、俺は支社の助っ人で出張した帰りだった。新人時代にお世話になった先輩と一杯だけ飲み、酒が抜けるのを待っていたら車内で寝てしまった。気づけば深夜だったが、翌日も仕事がある。現場仕事は入っておらず、デスクワークだったこともあり、俺はレンタカーを走らせた。


「親父には食べる気だったことが伝わっていると思う」


 注文した容器は置き配を頼んだ。部屋の片づけをした家族の誰かが、玄関前にある箱も見つけてくれただろう。


 十五歳の体は厄介で、我慢しても涙がこぼれてくる。転生して六年の間に少しずつ前世の未練はなくなったが、親父と仲直りできなかったことは、俺の中に残り続けていた。


 俺は雪村さんの沈黙が嫌で、鼻をすすりながら訊ねた。


「雪村さんの……未練は?」


 俺を見下ろす彼の目は、少しだけ寂しそうだった。


「僕の場合は、発売日を迎えられなかったことですね」


「このク……ゲームの?」


 意外な未練だっただけに、本音が出そうになった。俺はてっきり……。


 雪村さんは俺の失言を聞き逃さなかった。


「今クソゲーと言おうとしましたよね?」


「きっ、気のせいだよ」


 袖口で涙をぬぐってごまかした。魔素酔い薬の青い染みがまだついたままだった。


「自分が転生してみてわかりました」


 雪村さんは苦笑した。


「クソゲーでした」




 俺と雪村さんは魔王が開いたゲートを通り、コールドコーストの海へと出てきた。事前に防御の幕を張り巡らせ、濡れるのは防げたが、冷たい海水に熱を容赦なく奪われた。俺たちは寒さに震えながら岸に上がった。


「コールドコースト邸に」


 屋敷を指さす雪村さんに問う。


「こんな格好で行って、子爵に怒られない?」


 昨夜、魔王の屋敷に泊まった俺たちは、風呂を使わせてもらったが、服は昨日のままだった。特に何時間も放置していたコートの汚れはひどい。暖炉で乾かしたが、雪混じりの泥を吸って変色している。毎日洗っていた雪村さんの服も、完全には汚れを落とせず、シャツにしわが寄っていた。


「心配いりません。毎年オフシーズンになると、父は兄たちを連れて首都に行きますから」


 ホテルも閉鎖中で、コールドコースト邸にも最低限の使用人しかいないという。秋に会ったシャンバも休暇中だ。


 俺たちは暖を求めて小走りに階段を上った。正面の玄関をよけ、雪村さんは勝手口の扉を開けて中に入った。


 冬場、常に火がともされている調理場は暖かく、体のこわばりが緩んでいく。調理場にいた使用人に執事を呼ぶよう手配し、雪村さんと俺は暖炉の前で体を温めた。


 ほどなくして老執事が現れた。


「クラウス様、今年はお戻りになられないのかと思いました」


「急遽、予定が変更になったんです。すみません」


 一部の隙も無いような老執事は、俺にちらっと目を向けた。


「ご学友でしたね。彼の分のお部屋もご用意いたします」


「ありがとうございます。ああ、東側の客室をお願いします。僕の隣にある部屋を」


「……かしこまりました」


 一礼して老執事が去ると、俺は訊ねた。


「けんかでもしたの?」


「いいえ? いつも彼はあんな感じですよ?」


「そう?」


 老執事は秋に来たときも会ったが、あんな冷めたい目をしていただろうか。




 広くて寒い玄関ホールを抜け、俺は三階にある一室に案内された。部屋の中は冷えていたが、暖炉に薪が用意されていた。熱の魔石は範囲が限定的なため、湯たんぽの代わりとして使われることが多い。暖房器具としてはいまだに暖炉が主流だった。


 エリス先生のようにはいかなかったが、俺は魔法で焚きつけに火をつけた。魔界で出会う魔物対策で覚えた魔法は、飲み水の確保と雪村さんの洗濯で活躍しただけだった。


 扉をノックされ、開くと雪村さんがいた。


「着替えを持ってきました。ホテルに魔法具の洗濯機があるので、少し休んだら洗いに行きましょう」


「ありがとう」


 きれい好きの雪村さんは、もう着替えを済ませていた。


「水洗式ですから、ポケットの中身は出しておいてくださいね」


「了解」


 隣室に戻る彼を見送って、俺は扉を閉じた。さっそく俺も着替えさせてもらうことにする。


 雪村さんのものだろうか。さすがに下着はなかったが、彼は靴下と靴も貸してくれた。シャツとセーターを身に着け、ズボンの裾を二回折って靴に足を入れる。分厚い靴下のおかげで、靴から足が抜けるということはなかった。


 忘れないうちに、脱いだ服のポケットから中身を取り出しておく。ふたつの白い石を見て、俺は自分のずぼらさに頬をかいた。


「危ねっ」


 用務員さんに借りた魔石の借用書が入ったままだった。紙が毛羽立ち、端が少し丸くなっている。海水には浸からなかったが、旅の間に濡らすことはなかっただろうか。慌てて開き、中の文字を確認する。




 ゲームは終わったが、まだ物語は終わっていなかった。

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