第13話 アーリヤ・キホータという女性③
村人が寝室の扉を開けると、キホティータが横になったまま首をこちらに向けます。
「村人、おかえり」
「今日、はじめてキホティータ以外の人と話せました」
『すごいですね、あれを話せたと言うのですか?』
「この村は陰気な者が多いからな……その子は好奇心旺盛だ」
「話ができるのは、キホティータとスラ」
「私とすら?」
『迂闊ですよ、村人』
「……キホティータとはすらすら話せるから、助かっています」
『少し強引な誤魔化し方ですね』
「そうかい?」
キホティータが不思議そうに首を傾げているのを見て、村人は急いで言葉を継ぎ足します。
「えっと……あ、この家、浴槽があるんですね? 驚きました。すごいですね」
『だいぶん強引な話題展開ですね』
村人の頬は引きつっています。
「ああ、辺境では珍しいだろう? 潔癖症気味の母さんのために、父さんが試行錯誤して作ったんだ……」
「水を汲んできたので、使ってもいいですか?」
「もちろん。堪能してくれ」
お風呂がある家は、この集落で一番天国に近い場所かもしれません。
村人は、不潔になりすぎないように、井戸水で体を拭いていますが、毎日キホティータの介護や雑務で働きづめで、過去には魔物の体液などを浴びているため、一度全身をしっかり洗浄したいと思っていました。
許可も出たので、早速浴槽に水を張り、薪を準備して火をおこし、風呂釜を温めます。
こういう作業が、村人は苦ではありません。
湯気が立ったら、村人はいそいそとスライム服を脱ぎ、浴槽に飛び込みます。
「あ”ぁ”――――――――――――最高――――――――――――!」
今だけは、すべてが報われて清算されたような気持ちとお湯に、肩まで浸かります。
「たとえ全人類が不老不死になる日が来ても、お風呂が不要になる日は来ませんよ……」
『それほど良いものですか?』
「それはもう……」
お風呂、それはまさに人類が生み出した究極の癒やし空間です。
入浴ほど尊い文化はありません。
温かいお湯に包まれた瞬間、全身がふわっとほぐれ、重力から解放されたかのような、至福の時間が訪れます。
体の力が抜け、じんわりと血行が良くなっていくのがわかります。
天上から喇叭を吹く天使たちが舞い降りる姿を幻視すると共に、心の奥底にまで染みわたるような、極上のリラックスタイムの到来です。
お湯の温もりは、ただの沸かした水ではなく、入浴という行為は、ただお湯につかるだけではないと、断言できます。
一日の疲れを洗い流し、心の曇りすら晴らす、この宇宙の神秘と邂逅する瞬間とも言えます。
入浴時間は何者にも侵されてはならないのです。
湯気が立ちのぼるその光景は桃源郷。
肌を撫でる蒸気は天女の羽衣。
お風呂とは、入浴行為とは、幸せの同義語。
日常の中にある数少ない最上級の幸福。
花咲き乱れ光り舞う有頂天でありながら、心を無にして瞑想する質素な東屋のような静謐さも兼ね備える場所――それが浴槽です。
そしてお風呂に入るたび、人は生まれ変わるのです。
「入浴しない人生と、入浴する人生、前者と後者には、
『お湯に浸かって洗浄するだけの行為を、よくそこまで大げさに表現できますね?』
「これでも控えめに言っているつもりですよ?」
『そ、それほど……』
スライムが珍しく動揺したように言葉を詰まらせていました。
//
数日後。
村人が再び集落の井戸におもむくと、また少女がやってきました。
視線を向けると近くにあった納屋の裏に姿を隠します。
「大丈夫ですよー、何もしませんよー、怖くないですよー」
手を振りながら声をかけると、少女はより遠くに逃げていきました。
村人は、まるでなつかない野良猫の相手をしているようでした。
『今の台詞は完璧な不審者でしたね』
「うっかり肥溜めに鞘を落としますよ?」
『わかりました、明日は手を貸します』
//
翌日。
水は足りているので、今回の村人は水汲みをしているふりをしていました。
すると少女の観察がはじまります。
村人が小さな声でつぶやきます。
「お手並み拝見」
『ご照覧あれ』
スライムが、鞘から毛並みの良い白い中型犬に姿を変え、少女に駆け寄りました。
「きゃぁーーーーーーーーーっ!」
この悲鳴は、嬉しい悲鳴です。
少女は目を輝かせてスライム犬と戯れはじめました。
今まで好奇心と警戒心でびくびくしていたのが嘘のようなはしゃぎっぷりです。
一瞬で村人は少女の眼中になくなりました。
「ワンちゃん、おなまえは?」
『“すべてを治め
「スライムです」
警戒が薄れた少女にしれっと近づいた村人がそう伝えます。
「へんななまえー! だけどかーいーねースライムー」
『……………………』
少女に撫でまわされるスライム犬の眉間には深いしわが刻まれており、犬の習性のせいなのかわかりませんが、尻尾をブンブン振っています。
感情はないと自認するわりに、スライムという略称にはいまだに思うところがあるように見えます。
「あなたは、へんなひと?」
質素な薄手の服を着た少女は、歯に衣も着せません。
「変な人と話して大丈夫ですか?」
「うん……おもったよりこわくなかった」
「変で良かった、怖いよりましです」
「おねえちゃんはこわいんだ……」
「もしかして、アーリヤ・キホータのことですか?」
「うん」
「彼女も変ですけど、怖くないですよ?」
村人はそれとなくキホティータをフォローしました。
お世話をして、お世話になっている知人が、小さな女の子に怖がられているのは忍びないと思ったのです。
「おねえちゃんは――――」
続く少女の言葉を聞いて、村人は表情を失いました。
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