『おとこー?』

 ふざけたような調子で、里砂が言った。俺は指先でそっと涙を拭いながら、まあね、と答えた。

 「大学の語学クラスの男。」

 『ちょっとかっこいいって言ってたやつか。』

 「うん。」

 『寝たの?』

 「まあね。」

 俺の恋愛は、大抵寝るところまでは簡単だ。好奇心で男と寝てみるやつもいるし、単純に性欲発散に使われることもある。そこまでは、簡単なのだけれど、そこからが難しい。というか、成功したためしがない。

 「さっき寝て、もう帰られたよ。」

 『まあ、生々しい。』

 くくく、と、電話の向こうの里砂が笑う。その声を聞いて、俺は少し心が軽くなった気がした。その程度に笑い飛ばせるような出来事だと思い込めないこともないような気がしたのだ。

 「……一緒に死ぬかって、言われた。」

 言うか言わないか迷って、結局口にした台詞。里砂は一瞬黙ったけれど、すぐにさらりと返してきた。

 『いいよって、言ったんでしょ。』

 なんで分かったんだ、と、内心で驚きながら、俺は平然とした態度を取り繕った。

 「まあね。」

 『そこまでの男なの?』

 「……分からないや。」

 そいつのこと、全然知らないしね、と、俺は涙の気配を誤魔化すみたいに天井を見上げた。そいつのこと、全然知らない。それが全てだという気がした。悲しくなったのも、それが原因だと。

 『知りたいの?』

 「……そうかな。」

 『そうなのね。』

 里砂が決めつけるみたいに言うから、一瞬だけ反発心みたいなものがわいたけれど、里砂が正しいと分かってもいた。俺は、彼のことを知りたい。そして、それが叶わない予感がするから悲しい。

 「……また、きっと駄目なんだ。分かってる。」

 完全な泣き言を、里砂は軽く笑い飛ばした。

 『まだ分からないわ。千里眼じゃないんだから。』

 「そうかな。」

 『そうよ。』

 「……そうだといいな。」

 『また寝る予定はあるの?』

 「いまんとこ、ない。」

 『会う予定は?』

 「それも、ない。」

 言ってから、絶望的な気分になった。だって、語学のクラスも離れた今、俺には彼に会う方法がない。知っているのは名前だけで、多分専攻が違うのだろう、語学以外の授業で顔を合わせたこともなかった。

 黙り込んでしまった俺に、里砂は小さく笑った。いつもの彼女の、軽やかな笑い声。

 『大丈夫よ。』

 「なにが?」

 『今度こそうまくいく。』

 里砂の言葉になんの根拠もないことくらい承知していたけれど、それでも彼女にそうやって断言されると、そんな気にもなるのが不思議だった。俺は思わず微苦笑し、ありがとう、と彼女に礼を言って、それからどうでもいい会話をいくつか交わして電話を切った。

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