第21話


 小晴とは毎日電話で話した。

 電話代の心配はまったくなかった。年収は一気に三倍以上になったのである。そして休日数も三倍くらいになり、在社時間は半分くらいになった。

「ほんとに雪がないの?」

 小晴は毎夜、同じことに驚いた。

 そして、私が昼間から起きて自転車を四キロも五キロも漕いで春日井駅まで走り、そこからJRに乗って地下鉄に乗り換えて出勤していることにはさらに驚いている。

「増田君に、そんなまともなことができるとはねえ」

 冗談めかしたとんきような物言いだが、本気でびっくりしている。そもそも札幌では冬は自転車に乗れないのだ。

 私としても自転車なんか乗りたくはない。

 しかし会社に行かなくてはならないのだから仕方ない。

 時間ぎりぎりに起きては、母親の古い自転車を必死に漕いで春日井駅まで走った。古傷の膝が腫れ、夜中にロッキングを起こした。その膝を抱えては「馬鹿げてる」と思った。しかし何が馬鹿げてるのか頭のなかはまとまらなかった。



 小晴が名古屋に来たのは二月の終わりである。

 中日新聞近くのホテルに着いたと、約束どおり社に電話があった。午後十時半ごろに釣面の直しをして降版し、私はホテルまで走った。途中で脚がからまって転んだが、前方回転で立ち上がってまた走った。

 ホテルに着いたときには汗だくだった。

 ロビーに見たことのある顔が何人かいた。

 若手芸人である。何かのテレビ撮影で来ているのだろう。

 止められないようにフロントの前をひようぜんと素通りし、エレベーターで上がって部屋番号を探していく。

 部屋を見つけてノックした。しばらく待つとガチャリと音がして、ドアが引かれて小晴が顔をのぞかせた。

 しばらく真面目な顔をしていたが唐突に表情を崩した。そして大きくドアを引いて私を招き入れた。しばらく抱き合ってキスをした。小晴の口は雪の匂いがした。

 札幌にいたときのように、二人でベッドの上で向かい合ってあぐらをかいた。そして、離れてから二カ月間の積もる話を交互にした。毎日のように電話で話しているのだから知っていることばかりだが、顔を見ると互いに言葉が止まらなかった。

 ようやく落ち着いて冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。

「まずは明日、スガキヤだな」

 私は言った。札幌にいるときから約束していたことだ。スガキヤのラーメンは、札幌ラーメンの太い麵とは違い細麵で、味もまったく異なる。

「スープがいいんだよ」

 小学校と中学校のときは春日井のみずのスガキヤで、高校のときはおおユニーのスガキヤでラーメンを食べた。

 しばらくスガキヤの話をし、湯船をため、ひとりで服を脱いで、私はゆっくりと風呂にかった。小晴が煙草と灰皿を持ってやってきてトイレの蓋に座り、私に一本差し出して火をつけてくれた。

「ここは名古屋なのね」

 しみじみと言いながら自分も煙草をくわえた。

 トイレと一体型のユニットバスに入ってしまえば札幌のマンションと同じだ。目に見えるのは白いプラスチックの壁と天井だけ。私はその天井を見上げて煙を吐いた。

 風呂に入りながら煙草を吸うとガツンとニコチンが応える。これを知ったのは小晴と知り合ってからだ。彼女がこの吸い方を教えてくれた。

「はやく名古屋に来いよ」

 そんなふうにはとても言える状態ではなかった。私はあらゆることに悩んでいた。

 私が根元まで吸い終わった煙草を渡すと、小晴はそれを灰皿でみ消し、自分の煙草をもう一吸いしてから立ち上がった。

 バスルームを出ていく彼女の背中を見ながら、あまりに恵まれてしまった自分の境涯を浅ましく感じた。

 明日から五連休を取っている。

 月に十回ほど休みがある中日スポーツ総局整理部では、五連休を取っても残りの勤務にそれほど大きな影響はない。北海タイムスはそもそも月に四回しか休みがないので五連休なんて取れなかった。しかし月に十回休みがあっても中ス整理部の人たちは「休みが少ない」と言っていた。充分な年収があっても「給料が少ない」と言っていた。



 小晴が帰っていったころから私は本格的にニュース面の面担に入るようになった。

 といってもまだプロ野球開幕前なのでさほど忙しくはない。ドラゴンズを中心に十二球団の選手たちの動静、大相撲春場所の予想や力士たちの様子、アマチュアスポーツの記事などが各面にびっしりと詰まる。

 野球が開幕したら大変なことになりそうだ──。

 私はそれにすぐに気づいた。

 北海タイムスなどの一般紙、つまり中日新聞社でいう本紙には、お祭りがある。そのお祭りのときは全社態勢になって、多くの者たちが不眠不休の仕事となる。

 選挙である。

 北海タイムスは総選挙時は会議室という会議室に布団が敷き詰められ、編集局以外の人たちも仮眠しては開票数字の校閲や炊き出しに走りまわっていた。

 そのお祭り騒ぎが、スポーツ紙ではプロ野球ペナントレースのあいだ毎日続くのではないか。そう思った。

 プロ野球の多くはナイターのため、一般紙でも運動面の面担にはベテラン整理部員がついて必死に作業していた。そもそも早版にナイターの結果が間に合うことなどほとんどない。三十分後には早版を壊して中版を作り、一時間後にはそれも壊して遅版を作らねばならない。

 あたりまえだがスポーツ紙では多くの面がスポーツを扱っている。そのためナイターの記事を一面から五面くらいまで掲載する。毎日が大変な鉄火場になるのは目に見えていた。

 三月も何日か過ぎていくうち、プロ野球はオープン戦に入った。するとやはりプレ鉄火場のような編集現場が続き、私は相当な苦痛を感じながら日々仕事をした。

 四月に入ってプロ野球が開幕すると、その作業量は思ったとおり、大変なものになった。

 私は編集能力に自信を持っていたが、それが揺らぐ瞬間が何度もあった。

 ついていけないレベルをときどき感じたのである。瞬間瞬間をとつの判断で切り抜けたが、自分でも危ないと思った。自分は北海タイムスで濃密に凝縮されたトレーニングを受けて盤石の実力を身につけたと思っていたが、その〝実力〟の大半は編集能力ではなく北海タイムスでの制作システムを覚えていただけではなかったのかということに気づかされた。

 できるだけ焦りを顔に出さぬようにしていたが、内心では「もっと編集能力を上げて本物の力をつけないと大変なミスをやりかねない」という予感があった。

 北大三年目のときのななてい戦を思い出した。

 試合に向けて闘志を前面に出して乱取りを繰り返していたため後輩たちは怖がって引き込んだ。そこを一気に攻めて抑え込むことを繰り返し、自分が強くなったと錯覚してしまった。そのため七帝戦本番で東大のおおざわかず選手にカウンターの大外刈りで一本負けしてしまったのだ。

 面担で六面の大相撲や七面のアマチュアスポーツなどをやるときはよかった。しかし五面に入ってパ・リーグの全試合を扱ったりすると静かにパニックになった。だから深夜、家で座禅を組んで編集作業と大組作業のシミュレートをするようになった。正確に、素早く組めるように頭の中で訓練を重ねた。

 なにしろ早版の段階では一試合すら終わっていない。試合結果もわからぬまま降版時間が近づき、整理部デスクが「原稿出しとくから!」というのに合わせてレイアウトしていない割り付け用紙を手に四階の制作局への階段を走り降りるときは絶望的な気分だった。整理部や制作局の先輩たちの助けで何とか降版するが、頭のなかは真っ白になって倒れそうだった。

 階段の手すりを握りながらくたくたになって五階へ戻り、今度は中版の編集を一瞬にしてこなさなくてはならない。その間も私は平静を装っていた。



 五月になり、六月になると、何もしていないのに心臓の鼓動が速くなってきた。七帝戦が近づいてきたのだ。

 今夏の七帝戦をまさか内地に住んで経験するとは、二年半前に北大を中退したときには思いもしなかったことだ。私は北海道に永住すると決めていたはずだった。どうして自分がここにいるのか私にはだんだんとわからなくなっていた。

 深夜、実家に戻ると、女子大生の妹がたいてい起きていた。四つ歳下である。子供の頃から宿題を手伝わされていたが、今になってもレポートを手伝わされた。小学生のころなどは作文や写生などで市長賞や県知事賞などをって彼女の成績に貢献したが、いまもまた「優」を連発して彼女をほくほくさせた。

 私は電車や地下鉄を乗り換えて会社へ行くのが面倒になっていたので、妹に車で会社に送ってもらうことが増えていた。彼女は嬉々として送ってくれた。私が毎回「タクシーだったらこれくらいかかるだろう」と言って一万円札を一枚渡すからだ。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 頰を染めながらそれを受け取った。

 滅茶苦茶な金の使い方であるのは自分でもわかっていた。

 私が毎回書くレポートによって、彼女は大学の教授の覚えがよくなっていた。

「将来の教授候補として残ってくれないか」

 教授からそう言われるようになったという。しかし専門も何もまったく関係ない私が書くレポートに感激する教授というのは何だろうと思いながら、私は面白がってレポートを書いてやった。

 休みの日はときどき春日井市に新しくできたキャットカフェに行って猫と遊んだ。

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