第11話
萬田さんから渡された共同通信のモニター原稿をひとつずつ見ていく。
五本の原稿は思ったとおり外電ばかりだ。
外電、外電、外電、外電、国内経済。
外電四本は、イラク、イラク、イラク、イラク。そして経済記事もイラク関連である。つい二週間前、八月二日。イラクのクウェート侵攻で湾岸戦争が勃発していた。一面や国際面は大変な忙しさになっていた。
共同のモニター原稿にはそれぞれ萬田さんによって片隅に黒のボールペンで《三段》《ベタ》などと萬田さんが思う見出しサイズが書いてある。これを参考に価値判断しろということだ。こうして助言はくれる。しかしこのところ少しずつその手伝いの度合いも減り、見出しサイズさえ書いていない原稿が交じりはじめていた。
萬田さんから「共同の仮見出しは隠せよ。見出しをゼロから自分でつける訓練をしろ」と言われているので、私はいつものように紙で隠して考えはじめた。
仮見出しとは共同通信が原稿の文頭に必ずつけてくるもので、あくまで内容を各新聞社に
自社原稿は手書きで来て、もちろん仮見出しはついていないし、もしついていても整理部経験のない記者の場合、とんでもなく的外れにつけてくる。足場がないところでも正確に見出しがつけられるようにしておかないと、いざというときに何もできないポンコツ編集者になってしまう。
二段の経済記事の見出しと外電のベタ見出しをつけ、原稿と見出しを輪ゴムで結わえてベルトコンベアに放り投げた。そして萬田さんのレイアウトを見ながら自分の割り付け用紙に精密に線を引いていく。まずは強盗殺人の準トップ記事だけは自分でつけた見出しで左肩を抑えた。
そして萬田さんがトップに横凸版でつけている文言を、自分の割り付け用紙に書き写し、壁時計を見た。
降版時間まで五十分を切っている。
他の面担は明らかにスパートに入っていた。一面や社会面は最後までデスクが新しい記事を待って引っ張るのだ。私は残りの共同通信記事に見出しをつけ、見出しと一緒にベルトコンベアに流した。降版時間が近づくと、面担はレイアウトを完成させ、割り付け用紙と倍尺を持って四階の制作局に階段を走り降りる。そこで制作局の大組担当と一対一で、切った張ったの大組だ。制作局や製版の人たちに怒鳴り散らされ、時計を三十秒ごとに見上げつつ、こちらも怒鳴りながら十分か十五分でのスピード勝負をするのだ。
萬田さんは背筋を伸ばしてスマートだが厳しい顔を作っている。ニヒルを気取り、薄い黄色が入った銀縁眼鏡を小指でときどき押し上げていた。
その横顔を観察しながら私はベルトコンベアを挟んで向かい側の社会面にいる同期の野々村巡洋君に目配せした。野々村君は真剣な表情で私を見た。
彼の横に座る師匠は
私は校閲にいるときから整理部の人たちと何度も飲みにいき、権藤さんともサシで朝まで飲み交わしたことがある。仕事に真剣味がない者には厳しいが、やる気のある者には徹底的に教える人だとわかっていた。
野々村君とまた眼が合った。私は自分の机に置いてある宮沢りえのふんどしカレンダーを手にしてそれをめくって見せていく。野々村君が首を振って「ヤメテクダサイ。フザケナイデクダサイ」と唇を動かした。私も口だけを動かして「キブンテンカンニコレモッテトイレヘイッテセンズリカイテコイ」と言った。野々村君が首を傾げた。二度繰り返しても意味がわからないようなので諦めて頭を搔き、自分の割り付け用紙を見て倍尺を当て、これから来る原稿を想定しながらレイアウトのシミュレートをした。
それが終わると、また萬田さんの様子を窺った。萬田さんは、歳上の人たちからは「萬ちゃん」、歳下や部下からは「萬さん」と呼ばれている。社会部時代も支局時代もいい仕事をして、整理部長としてここに戻ってきたのだ。かなり若い抜擢らしい。そして今年一月には編集局次長という、重役を除けば編集ナンバーツーの地位に就いた。この地位は編集局内の人事の責任者でもあり、この人に私は無理やり引っ張られたのだ。腹は立つしイライラしたが、「俺が教える」と言って私のマンツーマントレーニングを、毎日、夕刊一面を使ってやってくれた。本来は面担などやるような地位ではない。それなのに「増田の師匠は俺がやる」と地上に降りてきて、夜の酒や女の指導までしている。
「一面、これ、フセインの差し替え」
デスクの堂島さんがモニター原稿を手に走ってきた。ちらと編集局次長席を見たが、萬田さんは座って別の仕事をしていた。これは完全にひとりでやれということだなとわかった。
時計を見上げた。
降版時間まで三十五分ほどになっていた。
堂島デスクが「お、増田。また差し替えだ。今のフセインの差し差し」と声をあげた。
そして「よし。見出しは一緒だ。出しとくぞ」と言ってデスク席からベルトコンベアに投げ入れた。
「おい、整理!」と社会部デスクが立ち上がった。
「強殺のガイシャの
手に写真。「間に合いましたか!」と堂島デスク。それを受け取ると「権藤さん。東区の強殺、雁首きました!」と大声で言った。
「おう。くれ」
「私が十三丸で雁首出しときます! 名前も下説で!」
「ありがとう。頼む」
権藤さんが堂島さんを見て肯いた。その横では
「増田! ブッシュ大統領の再差し替え!」
堂島さんが言いながら走ってきた。
「行数変わらんからこのまま出すぞ。仮見出しに《差し差し》と入れとくからな」
モニター原稿を丸め、輪ゴムで留めてベルトコンベアに投げ入れた。すぐにデスク席に小走りで戻っていく。
「堂島、二面、下行くぞ」
横の席の
私も心臓の鼓動が速くなっていた。ここからさらに強いGが脳と身体にかかっていく。深呼吸した。
そろそろ出していいだろう。凸版制作要請用紙を手にし、ボールペンで文言とサイズを書いた。指先が小さく震えた。急がねばならないが間違いも致命的だ。下へ降りたはいいが凸版の文言が違って作り直しとなり、降版遅れになった例をたくさん見た。凸版用紙を二度チェック。ベルトコンベアに放り込む。
次に凸版右下のトップ見出し二本を、萬田さんのメモどおりに見出し用紙に書いて丸め、輪ゴムで縛ってベルトコンベアに流した。
「お。増田。またフセインの差し替えきたぞ」
堂島デスクがモニター原稿を手にサンダルを鳴らして走ってきた。
モニター原稿数枚の右肩をホチキスで留めて、それを私の机の上に置いた。サインペンで行数を数え「四十九行だ。増えたか?」と聞いた。
「三行増えてます」
「よし」
そう言ってその場でサインペンで何カ所かを切った。「これでぴったりのはずだ。見出しは変わらない。出すぞ」と片隅に《夕1》と書いて丸め、輪ゴムで結わえてベルトコンベアに放り投げた。そのままデスク席に走って戻っていく。
「二社も下行きます!
私の斜め向かい、第二社会面の秋馬謙信さんが割り付け用紙をばさりと摑んで立ち上がった。倍尺をジーンズの尻ポケットに差して
「よし堂島、社会面も下へ行くぞ」
真向かいの権藤さんが言った。
「お願いします!」と堂島デスク。
権藤さんが心配そうに見る横で野々村君が立ち上がった。割り付け用紙を鷲摑みにして倍尺を尻ポケットに差し、走っていく。その後ろから権藤さんが耳の上にサインペンを挟んで小走りでいく。
堂島デスクが「おい増田!」と叫んだ。
「左肩、準トップ東区強殺の訂正きた。サプトンに訂正出しとく。行数合わせとく。《差し》っていうのを使えよ! わかったか!」
「はい!」
行数が変わると思って焦ったがそれなら大丈夫だ。
「どうだ。もう行けるか」
「はい。あとこのベタを一本出したら下行きます」
「よし。急げ。時間ないぞ」
ベタ見出しをつけた。モニター原稿と一緒に丸めて輪ゴムをかけ、ベルトコンベアに流した。
割り付け用紙と倍尺を手に立ち上がった。そして廊下へ出て体を斜めにするようにして不格好に四階へと駆け降りていく。数日前にまた膝を痛めていた。
「一面来ました!」
大声をあげて制作局に飛び込んだ。
「おい! 一面来たぞ!」
「増田が来たぞ!」
「急げ!」
「早くしろ!」
多くの制作局員たちが次々に声をあげた。
「おお来たか! 増田の大将!」
一面の大組台の前で大きなビニールエプロンをした制作の
「よろしく!」
私はその向かいに立って、横に割り付け用紙をがさがさと拡げた。そして大組台の中段罫のどこを
まわりでは制作局員や校閲部員などが声をあげて走りまわっている。局次長の萬田さんをはじめ、編集局長や社会部長など編集幹部たちも降りてきて、他の面の大刷りをそれぞれ読んでいる。
「左から二十三行空けて全角カスミ罫を七段立てて」
大組担当の爺さんに指示を出していく。
「はいよ」
「それでそこに八行四段
見出しと記事を渡して、自分はトップ記事の横凸版の下を塞いでいく。大組の爺さんが左に素速く記事を流していく。
「それでこれ。この横凸版、ここに」
「はいよ」
「その右下に、十行五段塞いでこの見出し立てて」
「はいよ」
そのとき「二面どうだ! 校閲!」とひときわ大きな声があがった。面担の山縣正一さんだ。
「ちょっと待って! この部分ちょっと変です。お願いします!」
校閲部の人が走ってきた。大刷りを山縣さんに見せている。なんだなんだとデスクの堂島さんや制作局幹部がその大組台に集まっていく。
「ここです、これ直して」
そう指摘する校閲部員の大刷りを山縣さんが手で払った。首を振った。
「だめだ。こんなものいい。降版優先だ!」
「でも」
制作局長が「どうした!」と声をあげた。「小さいのはいいぞ! 早く降ろせ! 降版時間、あと六分しかない! 降版優先だぞ!」
製版部が走ってきて「ダンゴになる! とにかく早く降ろしてくれ!」と怒りの表情で叫んだ。
「よし、降ろせ! 二面、降版OK!」
山縣さんが大声をあげた。
「よし二面、降版OK!」
「二面OK!」
「二面OKだ!」
「降ろせ!」
「二面OK!」
制作の面々が次々に声をあげる。
「増田! 急げよ!」
制作局長が大声をあげた。
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