大きな犬

 暗闇から意識がふっと浮かび上がる。


 まどろみの中で揺蕩うような不安定さを感じながら意識を取り戻すと、豪奢な天蓋の滑らかな布地の波が視界に映った。


 モスグリーンにホワイトを重ねて丁寧にドレープを作り、銀糸と金糸の刺繍が丁寧に施されている。領地の自分の自室はもっと簡素で天蓋はない。ということは、ここは屋敷でもないし、宿屋でもないと思い至って、アルヴィスはゆっくりと左右に視線を走らせた。


 すう、と指がそのまま走って行ってしまいそうなシルクカバーの枕に毛羽立ちのない木綿のシーツ。薄手の掛け布は喉元まですっぽりと自分を覆っている。


「アルヴィス…?」


 控えめに尋ねる声に、視線を辿れば黒髪の合間から水色の相貌がはにかむ様に、泣き顔をこらえるように向けられていることに気づく。


 重たい頭を抑えつつ、ゆっくりと体を起こせば、微かに背中と腰に痛みが走る。変な場所で寝てしまってここで運ばれたのだろうか、と少しばかり記憶を遡れば、あの男と会話して以後の記憶がふつりと途切れていることに気づいて目を見開く。


(わたし、確か。軍本部の、あの赤い目の悪魔のような軍人の部屋で)


 寒くて震えていると乱暴にコートを放り投げられて、あったかい、紅茶も飲みたいと思っている最中で思考が断ち切れている。


 状況を理解しようとしたが、記憶が実にぼんやりとしている。


 いやまさか。


 男性の前でうっかり寝てしまうなんて醜態をさらすはずは―――。


 ズキズキと痛む頭を緩和するように眉間をもみほぐしていると、反対の手に温かみを感じて顔を向ける。


「どうしましたか?どこか痛いところでも」


 片手をぎゅっと握りしめられ、心配そうに向けられる瞳に、いつも領地の屋敷の外の庭園を走り回っている真っ白な毛並みの愛犬を思い出して、くすっと笑みがこぼれた。眉間から外した手をセリウスの大きな手の上に重ねていつものようにふわりと笑いかける。


「ご心配をおかけしてしまったようで、申し訳ありません。起き抜けで、ぼんやりしていて状況がうまく掴めていないだけです」


 言いながらするっと握りしめられている手から指を抜こうとするのだが、上からしっかりと押さえつけられるようで抜け出せない。


(ん?)


 うるうると清流のような瞳がこちらをまっすぐ見つめてくる。ますます愛犬を連想させてしまい、ツボに入って笑ってしまってはダメだと理性で何とか押しとどめる。


 このままでは爆笑してしまい、失礼なところを見せてしまう危険があるため、やや強引に手を引き抜いた。掛布団の中に入れて腹部の前辺りで重ね合わせれば、名残惜し気な相貌が拗ねるように彷徨っていた。


 アルヴィスは一つ咳払いをして、リタやエヴァンスの姿、あるいは他の使用人の姿を探した。


 紳士と淑女が二人きりで部屋の中にいては貞操を疑われてもしょうがない事態である。


「ところで」


 内心、早くだれか来て、お互いの名誉のために、と焦りながらもアルヴィスはセリウスに向き直り、業務的な内容のやり取りを意識して会話を主導しようと試みる。


「今どのような状況か、教えていただくことは可能ですか?」


 もう一つ咳払いをして居住まいを正せば、目をぱちくりと瞬かせてセリウスが近くの椅子を寝台の真横に寄せ直し、ごくごく近い距離で静かに頷いた。


(距離が、とても近いのだけど、気のせいかしら?いや、気のせいよね)


 まるで病床の恋人を間近で見つめているような熱っぽさを帯びた視線に、内心びくつきながら、顔が強張らないように注意しつつにこりと尋ねる。


「―――心配しました」


 ぽつり、と零された言葉にアルヴィスは申し訳なさそうな笑顔を取り繕ったまま「申し訳ありません」と返し、続きを促す。


 セリウスは目線を少し下げて、これまでのことを簡単に教えてくれた。


 彼らが軍本部に到着した矢先、アルバートが眠っているアルヴィスを抱えて正面玄関から現れ、セリウスに押し付けて仕事に戻っていったこと。


 コートは汚れたから返さなくていいこと。


 余計なことに首を突っ込まないことなどを釘を刺されたという。


 そのコートはどこなのか、とうっかり眉間にしわを寄せて部屋を見渡すと、セリウスは苦笑して執事のアリエンスが持っていきました、と返した。


 執事のアリエンスの名前が出たということは、ここはエヴァンスの邸なのだということが明確化し、アルヴィスはひとまずほっと胸を撫でおろす。この様子だと、リタはステファンと一緒に無事に伝言を解読しエヴァンスの屋敷に駆けこんでセリウスに繋げてくれたのだろう。


 想定外だったのは、カートライト卿でもあるセリウスの到着を待つより早く事態が回収され、アルヴィスが釈放された、ということだった。


 ニコニコと微笑むセリウスはまるでよくしつけられた子犬のようで、「ちゃんと間違えず報告できたこと」を褒めて欲しいというような在り様だった。存在しないはずの大きな尻尾が見えたような気がして、アルヴィスは軽く目をこすった。


 もちろん心から感謝していたので、丁寧に礼を述べると、彼は舞い上がったように顔を赤らめて、なぜか小さく「よし」とこぶしを握り締めていた。どうしたのだろう。


(汚れたから返さなくていいって、人をばい菌のように…)


 ふと淑女にはあるまじきことだけれど、うっかり寝入ってしまった後、彼の上着に涎でもつけてしまったのだろうかと思うと羞恥のあまり顔に一気に朱が走る。


 そもそも官給品の軍服のコートを返さなくて良いとは何事だ。そんなに私のことが嫌いなのかと思うと、ざわりと心が波打つ気がした。


(おばあさまが生きていらしたら)


 あの優しくも厳しい、淑女の鏡のような人物に何と言われるかを想像し、アルヴィスは絶望的な気分になった。


 もしこのことがリタにバレでもしたら「淑女が、紳士の前で、居眠りしません!!」と怒られてしまうのは明白だった。



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