魚上氷

 魚上氷うおこおりをいずる。立春の末候であり、七十二候の第三候である。

 日付が変わると共に、屋敷に新しい主が現れた。水色の着物に藍白の帯、髪と瞳は藍鼠あいねず色。薄氷うすらいの下で泳ぐ魚と同じ色を宿した主だ。前の主はたわむれに口ずさんだ幽かな歌声と共に消えてしまった。

 寒さで縮こまったところへ活を入れるかのように、再び風が強まってきている。雪は落ち着き、みぞれが多くなってきている。静まって美しかった雪景色には穴が空き、少しずつ崩れて、流れを生み始めている。

 一通り、屋敷と世話役の顔を見て回ると、主は広い庭へ出た。時おり、ごうと風が吹き抜けていくが、差し込む日差しは温かさを取り戻したかのように感じられる。軒先からは、ぽたぽたと数多の雫が滴っていた。とさり、どこかで雪の崩れる音も聞こえる。

 鼻から息を吸い込むと、冷たい空気に混じって、水の匂いがした。途端、主は透き通った瞳を輝かせ、玄関に向かって走り出す。騒がしい足音に、世話役たちが何事かと混乱するのを尻目に、主は雪駄を突っ掛けて飛び出してしまった。足場が悪いのに加え、着物で歩幅を制限されているのに、構わず軽やかに走っていく。外套を手に、慌てて後を追う世話役が呼びかけるが、全く聞いていない。

 土の混じる雪をばちゃばちゃ散らかして、元気な主が向かった先は、同じく雪解けが始まっている山。登山道も変わらず悪路だというのに、藍鼠の瞳は目的地を見据えたまま輝いている。

 汚れに汚れた裾や足袋を更に汚して、主は山中へずんずん分け入り、やがて池に辿り着いた。上がった息を整えていくと、白い吐息に曇らされていた視界が晴れ、息継ぎに隠れていた流水の音が聞こえ始める。その中に、魚が水中で身をひるがえす鈍い音も。


「ぬしさまぁーっ、……はあっ、はあ……、主様!」


 主が池の畔へ近づいて、薄氷の下に蠢く魚影を眺めていると、隙間だらけの木立を抜けて呼び声が飛んできた。ようやく顧みた先では、上着を汚さないよう大事に抱えた世話役が、よろよろと懸命に進んでいる。


「おっと、悪かった。水の音がしたから、駆け出さずにはいられなくなってしまって」


 場都合が悪そうな顔をして、主はすぐに世話役の方へ歩み寄った。二人そろって同じ色彩を纏い、足元の汚れ具合もそっくり。違う所は背丈と、顔を布で隠しているかどうかだけ。


「はあ、はあ……まだ寒うございますから、上着を」

「駆けてきたので体は温まっている。心配するな」


 にっこり笑った主に、世話役は「そんなぁ」と情けない声を上げて、がっくり肩を落とした。が、すぐにまた背筋を伸ばして主を見上げる。


「しかし、帰る頃には体が冷えてしまうかもしれません。その時は」

「帰る時も走れば温かくなるだろう」

「いいえ、転ばないよう気をつけて、歩いて帰っていただきます。世話役は普通、外出時にはお伴を名乗らせていただきますが、今回はお目付け役とさせていただきます」

「そこまで言われては仕方がないか。分かった、帰路はゆっくり辿ろう。この池に住むものたちのように」


 真面目な顔で頷いた主は、再び池へ視線を落とした。薄氷と水の境目が不確かな池には、ゆうらりと魚が泳いでいる。時に氷をつついては、冷たさに驚いたかのように身を翻して、水底へ消えていく。中には主と同じく元気な魚もいて、池から流れ出す川の方へ向かい、ぱしゃんと水飛沫を上げていた。


「ここまで走ってくる間にも、薄氷と水溜まりをたくさん見た。解けた雪が落ちるところも。まだ冷たいし、解けきらないだろうが、春は来ているのだな」


 自分が何に反応するのか、されるのか。どの主も分かっている。主は水中を覗き込むけれど、己と同じ藍鼠の影を持つ魚や、水との境を失いつつある薄氷しか見ていない。

 びゅう、と強く風が吹く。水面には細波さざなみが立ち、水と氷の違いを明らかにしていた。持ち上げようとすれば崩れてしまうだろう氷は、勢い余って乗り上げる小魚くらいしか乗れそうにない。今日の気温では、氷に乗り上げるほど跳ねる魚はいないだろうが。


「あの川に沿って、屋敷まで戻ろう。ちゃんと気をつけるから」

「承知いたしました。その前に上着を」

「そうだった。着せておくれ」


 お目付け役にずっと抱えられたことで、ほんのりと温まった上着が、やっと主に袖を通される。帯と同じ藍白の地に、着物と同じ水色の氷割ひわれ模様が染め抜かれた上着は、汚れたら台無しなほど上等なものだ。


「本当に、しっかり気をつけてくださいね」


 お目付け役も分かっているのか、布越しでも分かる視線を寄越しながら、元気な主に注意する。主も着てみて実感したのか、しゃんと背筋を伸ばして頷いた。

 穏やかに流れる川伝いに、主とお目付け役が山を下っていく。鳥獣の気配は微塵もなく、二つの足音とただ水の流れ出していく音、思い出したように吹き抜ける風の音だけが、眠る山に響いていた。主に応じて変化するのは、屋敷の周囲に巡る山海も同じである。

 言いつけ通りに転ぶことなく下っていくと、屋敷の門とは反対方向にある川原へ行き着いた。まだ雪が残っていたため、踏み固めて道を開いていく。裾や足袋の汚れが重なり、せっかくの上着にも跳ねた水の跡がついてしまったが、お目付け役は何も言わなかった。主はそもそも仕方ないと割り切っていた。

 川幅が広くなったため、流水の音も大きくなる。ふと、主は山まで行ったことのおかしさに気付いたが、理由はすぐに分かった。挨拶のために呼ばれたのだと。庭池に暮らす魚たちも、挨拶の時を待っている。


「悪いことをしてしまった」


 ぽつり、零れた主の反省に、「いいえ」とお目付け役の返事があった。足を止めて振り返れば、布に隠された顔が、確かに主を見つめている。


「ここには、悪いことなどありませぬ。ここは、巡り来たりて去りゆく主様たちの庭にございますれば」


 浅くお辞儀をして、祈りを捧げるように言う世話役に、主は静かに微笑んだ。「そうか」と答えた声は、滑らかな流水の奏でに乗って、すんなり溶け込んでいった。

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