黄鶯睍睆

 黄鶯睍睆うぐいすなく。立春の次候であり、七十二候の第二候である。

 日付が変わると共に、屋敷に新しい主が現れた。梅幸茶ばいこうちゃの着物に灰梅の帯、髪と瞳は鶯色うぐいすいろで、光に透けると黄色が混じる。梅に鶯の色を宿した主だ。前の主は透き通った冷たい空気に溶けて消えてしまった。

 最後に上り詰めたかのような寒冷は、徐々に緩んでいるらしい兆しを見せている。未だ屋敷の周囲は雪深いが、その下からは春の起きる音が、かすかに聞こえてくるような気配がある。

 一通り、屋敷と世話役の顔を見て回ると、主は広い庭へ出た。世話役たちによって作られた雪の道が、沓脱石くつぬぎいしからぐんと伸びている。屋敷の庭は広いので、道がどこへどう繋がっているのか、全容は窺えない。


「――誰か有る」


 じっと道を見つめていたかと思えば、主は屋内を振り返り、軽やかな声を投げた。すぐにやって来た世話役は、顔を布で隠し、装いの色を主に合わせている。


「履物をここに。庭を歩くから伴をせよ」

「羽織と襟巻もお召しください。まだ寒うございます」

「では、羽織と襟巻は別の者に言って取り寄せなさい」

「承知いたしました」


 世話役は一礼してから踵を返し、そう待たせることなく、雪駄を二足持って戻ってきた。途中で声を掛けたのだろう、衣類を抱えた世話役と共に。雪駄は沓脱石に置かれ、世話役は二人がかりで、主に羽織と襟巻を纏わせた。羽織は鶯茶、襟巻は紅梅色である。

 片方の世話役に見送られ、主とお伴は庭へ降りた。朗らかな日差しが降り注ぎ、雪が目映く輝いている。目を細めながら、主は小道を進んでいった。吐き出される白い息は、雪の白に混じって見えないが、二つの足音は確かな痕跡と共に刻まれていく。

 並ぶ枯れ木なりの趣を眺め歩いていた主は、庭池のほとりへと出た。大きな池には、不思議と雪を被っていない島が一つ。簡素な石橋が架けられ、畔と繋げられたそこには、梅の木が静かに佇んでいた。

 屋敷の庭は広いのに加え、主に応じて変化する。主の望みに応じて現れることもあれば、庭そのものが主に会いたがって現れることもある。今回は後者らしいと、主は何となく感じ取った。それなら会わなければと、雪のない石橋へと踏み出した。

 池には黒いこいが泳いでいたが、まだ動きは鈍く、夢うつつを漂っているように見える。主とお伴が尻鉄の硬い足音を響かせても、まるで反応しない。さもありなんと、主は鯉に微笑んだ。魚たちが反応するのは、また別の主だろうから。自分が何に反応されるのかは、どの主も分かっている。

 石橋を渡り切り島へ着くと、かすかに甘い香りが主を出迎えた。まだ冷たく、凛とした空気の中で、香りを放つ梅の花が点々と咲いている。厳めしい黒茶の枝に咲き開く紅白の梅は、すっかり目を覚まして、主に微笑を返しているようだった。


「……あっ、主様。鶯が」

「ああ、挨拶に来てくれたようだ」


 枯れ木に紛れるような、褪せた緑の羽を持つ小鳥が一羽飛んできて、紅梅の枝へ留まる。鶯は人を警戒するが、主も世話役たちも形が人というだけなので、警戒されることはない。

 鯉や梅にしたように主がほほ笑みかけると、ケキョッ、と下手な鳴き声が返された。歌い慣れた鶯でも、練習しなければ上手に歌えないという。若鳥なのか、成鳥なのかは分からないが、鶯はしきりに鳴いてみせた。淑やかで控えめな梅の匂いも、不器用で健気なの声も、主とお伴に選ばれた世話役だけに届けられていた。

 そっと、主が鶯へ手を伸ばす。梅の枝とは明らかに色が違う足場の登場に、鶯はまるで動じず、ぴょんと飛び移ってみせた。重みらしい重みも感じさせない小鳥は、主が腕を下げて距離を詰めても落ち着き払っている。

 小さなくちばしとつぶらな瞳、か細い足。春の初音を告げる鳥を、主はつぶさに観察していく。じっと見つめられていても、鶯は歌の練習を続けており、発声のたびに嘴が忙しなく動いていた。


「ありがとう。枝にお戻り」


 主がまた、ゆっくり腕を伸ばすと、鶯は途中で羽ばたき自ら戻っていった。枝の上に戻っても、どこかへ飛び去るつもりはないらしい。自分が下手なことは承知とでも言うかのような澄まし顔で、歌の練習を続けている。

 その声が島の外へも届いたのか、数羽の鶯が立て続けに飛んできた。後からやって来た鶯たちも、紅梅だけでなく白梅に留まって鳴き出したが、いずれもやっぱり下手である。それでも真面目に練習しているので、主もまた、小さく声を立てて笑っていた。

 主はしばらく梅を眺め、鶯たちの歌に耳を傾けていたが、満足すると「また来る」と声を掛けて踵を返した。主とお伴が石橋を渡り切るまで、鶯たちの練習は止まなかったが、二人が畔から振り返った途端に鳴き止み、どこかへ飛び去って行く。


「また明日、練習するのだろうな。明日もここへ見に来るが、伴をするか?」

「我々は記憶を共にしております。どの世話役にお声がけいただいても、問題ありません」


 味気ない返答だが、世話役とはそういうモノ。主も承知している。「では、明日も頼んだ」と返せば、お伴は深く一礼した。本日のお伴が明日のお伴になるのかは、主も、世話役にも分からない。

 二人は細い小道へ戻り、雪に覆われた庭へと戻っていく。ざくざくと転がる二つの足音は、心なしか、来た時よりも柔らかくなったような響きをしていた。

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