折節の箱庭

葉霜雁景

立春

東風解凍

 東風解凍はるかぜこおりをとく。立春の初候であり、七十二候の第一候である。

 日付が変わると共に、屋敷に新しい主が現れた。白花色の着物に空色の帯、髪と瞳は呂色ろいろ。雪と、その下に眠る黒土の色を宿した主だ。前の主はひときわ強い寒風が吹くと共に消えてしまった。

 季節は春だと言っているが、気配の欠片を感じ取れるかさえ怪しい。本当に春が来ているのか疑わしいが、こうして新しい主が現れた以上、春を迎える準備は始まっている。

 一通り、屋敷と世話役の顔を見て回ると、主は広い庭へ出た。深い雪で覆われた庭に、木々や生け垣、塀が青い影を落としている。夕暮れには柔らかな淡黄も混じるだろう。雪の滑らかな陰影から空へ視線を移してみると、晴れ空に刷かれた雲が見えた。空に溶けて消えそうなほど薄い。

 外気も、吹いてくる風もまだ冷たいが、南に作られた坪庭には苔の緑が少しあった。屋敷を出て南へ向かえば、海を見られるだろう。隙間なく着こんでいた世界の様相が、緩慢を見せ始めている。凍り付いたように動けなかったのが、滑らかに動き出そうとしている。

 庭を見終わると、主は書斎へ引っ込んだ。書院造の書斎に、目立つような色彩は無い。障子や引き戸の白に、年を重ねた木材の色。畳の緑も枯れた趣で落ち着いている。床の間には花が飾られていたが、白梅でやはり色は無い。だが、ふわりと密やかに語り掛けてくる香りのおかげで、華やぎがあった。

 ほころびかけの梅の枝に似つかわしい黒橡色くろつるばみいろの花器は、土の滑らかな凹凸を残している。近寄った主は、そっと花器に触れてみた。ひんやりとした無機物の手触りが指先に、そして手のひらに。きっと、人間の手で整えられたのだろう形を、同じ人型をした主の手がなぞり、隙間を埋める。吸い付くような感触は、花器と肉体とが一体化していくような、静かな心地へ変わっていく。

 主は手を離した。いつまでも花器から離れず、この場で沈黙していたいわけではない。

 床の間と向き合う形で置かれている文机に歩み寄り、机上の鈴を鳴らした。りぃん、と一つ鳴った音が、屋敷に響く。間もなく軽い足音が聞こえ、世話役が一人、書斎に入ってきた。

 世話役は皆、同じ背格好をしている。色合いは主に揃えており、着物は白花色、帯は空色。髪も呂色だが、瞳は布で顔ごと隠されていて分からない。


「外出する。支度の後も伴をせよ」


 短い指示に一礼すると、世話役は書斎に入り、隣室への襖を開けた。主の寝室でもあるそこには、衣装箪笥や衣桁がある。世話役は箪笥から白花色の道行と空色の襟巻、呂色の手袋を出して持ってくると、主が着るのを手伝った。終われば世話役も支度のために自室へ戻るので、主は先に玄関へ向かい、世話役が来るまで待っている。

 待つと言っても長くはない。近くで仕事をしていた別の世話役たちが見送りに集う中、伴を任じた世話役が、主と同じ色の道行と襟巻を纏って馳せ参じた。別の者が既に出していた二足の雪駄を履けば、「行ってらっしゃいませ」の声が一つ。合わせて下がる数人の頭に、主の「行ってくる」が返された。

 雪が退かされ顔を出す石畳を、雪駄の尻鉄が打つ。ちゃらちゃらと鳴る二つの音は、門を出ると一度止まった。


「どちらへ赴かれますか」

「海だ」


 またも短く答えて、主は迷いなく歩き出す。海へ出る道も、山へ出る道も、曲がりくねってはいるが一本道。方向さえ分かっていれば、おのずと辿り着ける。

 誰かが踏み固めたのか、そもそも最初から開いているのか、平たくなった雪道を進むことしばらく。聞こえ始めた波濤の遠鳴りや、漂い始めた磯の香りが、途中から道案内を始めた。冴え渡って透明な空気の中で、生き物由来の香りは這っているかのように、のんびりと宙を泳いでいる。

 海へ近づけば近づくほど、風が強くなっていく。雪も吹き散らされてしまうため、踏み締めて分かる雪の厚みも変わっていく。今日は晴れていて良かったと、主は薄っすら思った。雪が降っていたら吹雪いて視界が悪くなり、体中に雪が吹きつけられて冷たくなってしまう。

 やがて、主とお伴は崖の上へ到着した。見霽みはるかす海原は濃縹こきはなだに波打ち、雲の一行が往く空の色は、清々しくも柔らかな薄青。今の主や世話役たちが身に着けている空色が、そのまま天蓋に広がっている。

 びゅうと吹く海風が纏う生き物の匂いは、冷え切っているせいで薄い。主やお伴の鼻が冷え切っているから、嗅ぎ取れないだけかもしれないが。

 薄い青と濃い青、それぞれが上下を彩る景色から目を離し、主は隣から続いていた下り坂へ進んだ。丸太の手すりと柵が設置されている辺り、海の近くへ降りることは想定済みらしい。下りた先には磯辺が広がっているため、香りが濃さを増していく。打ち付けられる波の音も、次第に激しさを垣間見せてくる。


「足元にじゅうぶん気を付けなさい」


 濡れた岩場へ進む前に、主はお伴を振り返った。顔を布で隠したお伴は、ぴんと背筋を伸ばして、「承知いたしました」と深く一礼した。

 言った主もじゅうぶん注意しながら、波を砕く岩場へ踏み出す。屋敷の苔と同じように、磯辺も所どころ緑がかっていた。風も波も寒さも、衰えるにはまだ少しかかりそうなのに、早駆けの春は静かに根を張っている。


主様ぬしさま、それ以上進みますと、飛沫に見舞われてしまいます」


 下に気を取られていた主を、お伴の声が制した。ちょうど打ち寄せて砕けた波の飛沫が、主のすぐ傍に飛んできて、しかし届くことはなく散る。既に濡れている足元では、痕跡を残すこともなく。


「濡れずに済んだ、ありがとう。そろそろ戻ろうか」


 言いながら歩み寄る主に、お伴は「はい」と一礼を返す。呂色の瞳は同じ色合いの磯辺から離れ、崖を見上げた。未だ枯れた装いのまま、眠っている草木が見える。断崖の途中には、舞の型を思わせるような松が、枝を揺らしながらも凛と伸ばしている。

 砕ける波濤と強風、凍ることなく巡り続けるものたちが、見上げる主の背を押した。お伴を従えた屋敷の主は、未だ雪深く眠る方へ戻っていく。海から離れ、背に風を感じなくなっても、雪を踏み締めて歩いていく。

 春らしい面影は、やはりどこにも見えない。けれど風に撫でさすられ、冬は優しく削られている。少しずつ、少しずつ。

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