折節の箱庭
葉霜雁景
立春
東風解凍
日付が変わると共に、屋敷に新しい主が現れた。白花色の着物に空色の帯、髪と瞳は
季節は春だと言っているが、気配の欠片を感じ取れるかさえ怪しい。本当に春が来ているのか疑わしいが、こうして新しい主が現れた以上、春を迎える準備は始まっている。
一通り、屋敷と世話役の顔を見て回ると、主は広い庭へ出た。深い雪で覆われた庭に、木々や生け垣、塀が青い影を落としている。夕暮れには柔らかな淡黄も混じるだろう。雪の滑らかな陰影から空へ視線を移してみると、晴れ空に刷かれた雲が見えた。空に溶けて消えそうなほど薄い。
外気も、吹いてくる風もまだ冷たいが、南に作られた坪庭には苔の緑が少しあった。屋敷を出て南へ向かえば、海を見られるだろう。隙間なく着こんでいた世界の様相が、緩慢を見せ始めている。凍り付いたように動けなかったのが、滑らかに動き出そうとしている。
庭を見終わると、主は書斎へ引っ込んだ。書院造の書斎に、目立つような色彩は無い。障子や引き戸の白に、年を重ねた木材の色。畳の緑も枯れた趣で落ち着いている。床の間には花が飾られていたが、白梅でやはり色は無い。だが、ふわりと密やかに語り掛けてくる香りのおかげで、華やぎがあった。
ほころびかけの梅の枝に似つかわしい
主は手を離した。いつまでも花器から離れず、この場で沈黙していたいわけではない。
床の間と向き合う形で置かれている文机に歩み寄り、机上の鈴を鳴らした。りぃん、と一つ鳴った音が、屋敷に響く。間もなく軽い足音が聞こえ、世話役が一人、書斎に入ってきた。
世話役は皆、同じ背格好をしている。色合いは主に揃えており、着物は白花色、帯は空色。髪も呂色だが、瞳は布で顔ごと隠されていて分からない。
「外出する。支度の後も伴をせよ」
短い指示に一礼すると、世話役は書斎に入り、隣室への襖を開けた。主の寝室でもあるそこには、衣装箪笥や衣桁がある。世話役は箪笥から白花色の道行と空色の襟巻、呂色の手袋を出して持ってくると、主が着るのを手伝った。終われば世話役も支度のために自室へ戻るので、主は先に玄関へ向かい、世話役が来るまで待っている。
待つと言っても長くはない。近くで仕事をしていた別の世話役たちが見送りに集う中、伴を任じた世話役が、主と同じ色の道行と襟巻を纏って馳せ参じた。別の者が既に出していた二足の雪駄を履けば、「行ってらっしゃいませ」の声が一つ。合わせて下がる数人の頭に、主の「行ってくる」が返された。
雪が退かされ顔を出す石畳を、雪駄の尻鉄が打つ。ちゃらちゃらと鳴る二つの音は、門を出ると一度止まった。
「どちらへ赴かれますか」
「海だ」
またも短く答えて、主は迷いなく歩き出す。海へ出る道も、山へ出る道も、曲がりくねってはいるが一本道。方向さえ分かっていれば、おのずと辿り着ける。
誰かが踏み固めたのか、そもそも最初から開いているのか、平たくなった雪道を進むことしばらく。聞こえ始めた波濤の遠鳴りや、漂い始めた磯の香りが、途中から道案内を始めた。冴え渡って透明な空気の中で、生き物由来の香りは這っているかのように、のんびりと宙を泳いでいる。
海へ近づけば近づくほど、風が強くなっていく。雪も吹き散らされてしまうため、踏み締めて分かる雪の厚みも変わっていく。今日は晴れていて良かったと、主は薄っすら思った。雪が降っていたら吹雪いて視界が悪くなり、体中に雪が吹きつけられて冷たくなってしまう。
やがて、主とお伴は崖の上へ到着した。
びゅうと吹く海風が纏う生き物の匂いは、冷え切っているせいで薄い。主やお伴の鼻が冷え切っているから、嗅ぎ取れないだけかもしれないが。
薄い青と濃い青、それぞれが上下を彩る景色から目を離し、主は隣から続いていた下り坂へ進んだ。丸太の手すりと柵が設置されている辺り、海の近くへ降りることは想定済みらしい。下りた先には磯辺が広がっているため、香りが濃さを増していく。打ち付けられる波の音も、次第に激しさを垣間見せてくる。
「足元にじゅうぶん気を付けなさい」
濡れた岩場へ進む前に、主はお伴を振り返った。顔を布で隠したお伴は、ぴんと背筋を伸ばして、「承知いたしました」と深く一礼した。
言った主もじゅうぶん注意しながら、波を砕く岩場へ踏み出す。屋敷の苔と同じように、磯辺も所どころ緑がかっていた。風も波も寒さも、衰えるにはまだ少しかかりそうなのに、早駆けの春は静かに根を張っている。
「
下に気を取られていた主を、お伴の声が制した。ちょうど打ち寄せて砕けた波の飛沫が、主のすぐ傍に飛んできて、しかし届くことはなく散る。既に濡れている足元では、痕跡を残すこともなく。
「濡れずに済んだ、ありがとう。そろそろ戻ろうか」
言いながら歩み寄る主に、お伴は「はい」と一礼を返す。呂色の瞳は同じ色合いの磯辺から離れ、崖を見上げた。未だ枯れた装いのまま、眠っている草木が見える。断崖の途中には、舞の型を思わせるような松が、枝を揺らしながらも凛と伸ばしている。
砕ける波濤と強風、凍ることなく巡り続けるものたちが、見上げる主の背を押した。お伴を従えた屋敷の主は、未だ雪深く眠る方へ戻っていく。海から離れ、背に風を感じなくなっても、雪を踏み締めて歩いていく。
春らしい面影は、やはりどこにも見えない。けれど風に撫でさすられ、冬は優しく削られている。少しずつ、少しずつ。
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