大雨時行
「いやあ涼しくなった! やっぱり自然の涼しさの方が体に良い」
が、雷雨はもう過ぎたこと。全開にした窓の傍、籐椅子に座って団扇を扇ぎながら、ニシキさんが笑っている。窓外は下の方に川が流れているため、なおのこと涼しい。
自分は窓辺でなく、室内の居間で座布団に座っているが、じゅうぶんに涼しい風を感じられる。若干、湿気があるものの、連日の暑さを思えば全く気にならない。折節の里は大暑の村でも、暑さと雨後の涼しさは感じられるが、現世ではより強く感じ取れるようだ。三十度どころか三十五度を軽々と超えてしまうような暑さでは、雨が一層恋しく感じられる。
ところで。折節の里からは現世の様々なところへ出ることが可能なのに、自分たちは今回、旅館に泊っている。こちら側の事情が伝わる旅館でもあるのだが、四人がいっぺんに泊れてなお余裕のある一室を取れたのは、ニシキさんや葛籠さんの伝手によるものらしい。
そこまでして何をしたいのかと言えば、仙台の七夕祭りを見に行くのだ。先月だったか先々月だったか、ニシキさんとそういう約束をした。アメリさんこと姉さんもいるし、葛籠さんもいる。二人とも、今は旅館の売店を見に行っているが。
「梓くん、きみも向かいに座らないか。こっちの方が涼しいよ。ほら、ここへ来る途中で、全員分の
ひとまず存分に涼んだのか、ニシキさんから誘いを受けた。確かに団扇は、無料で配られていたのを貰っている。広告が載っている団扇だが、正直、どういう内容が掲載されているのかよく分からない。字は読めるのだが、何が大特価なのやら。ニシキさんに訊いても、葛籠さんに訊いても、「君には特に関係ないことだ」としか言われなかった。
あんまりはぐらかされるので、もしやいかがわしい内容なのではと疑いもしたけれど、それなら早々に没収されている。というか渡してももらえないだろう。ニシキさんも葛籠さんも、思っている以上にこちらへ配慮してくれている。
「あ、顔を洗ってからそこへ行っても良いですか」
「いいね、よりすっきりしそうだ。きみが終わったら私も顔を洗おうかな。さすがに湿気でベタベタしてきたし」
ニシキさんが既に
荷物から団扇を出し、ニシキさんと入れ替わりに、ずっと空いていた籐椅子へ座る。当然ながら、座布団に正座しているより風通しが良い。体温が籠って高くなってしまっていた部分がすっと冷やされ、心地よさに変わっていく。
窓の近くは水の匂いが強く、川の音もはっきりと聞こえてきた。川が流れる音も、雨が下界を叩く音も、同じような響きをしている。晴れ晴れとした炎天のまま、時が止まっていたかのようだったのに、今になって勢いよく時が流れ出したかのような感覚がする。水に乗って、夏が流れ落ちていくような。まあ、暑さはしばらく続くだろうし、昨今の現世は秋になっても暑いことが多いのだが。
「それにしても、アメリも葛籠も遅いねぇ。アメリが我儘でも言い出したのかな」
ぼうっと外を眺めていたら、ニシキさんも戻ってきた。片眼鏡がいつもの位置に収まり、団扇もテーブルから持ち上げられる。
「仙台には、美味しいものがたくさんあると言いますからね」
「そうだねぇ。だからと言って初日に全部と欲張ったら、後々困る可能性があるからね。梓くんも気をつけたまえよ」
「大丈夫です。自分は皆さんに比べると、あまり食べ物に興味がありませんから。ただ、そうですね……ずんだ餅なる緑色の食べ物は、ここへ来るまでに何度も広告を見たので、どんなものなのか食べてみたいです」
「んふふ、気になっちゃったか。いいよ、憶えておこう。祭りの余韻で忘れていたら、ちゃんと言ってくれよ?」
「分かりました」
けど、余程のことがない限り、ニシキさんは約束を忘れないだろう。ニシキさんは、一度関わった物事を、ずっと憶えているひとだ。時にそれを手放し、他の場所へ見送ることがあっても、ずっと憶えている。
今日、炎天に晒され続けた現世へ降った大雨は、何かを流しても行ったのだろう。今のところ、被害があったという報道を確認してはいないが、水というのは凄まじいものだ。現世の人間たちの進歩もすごいのに、水はいつまで経っても脅威であり続けている。その力に流され、彼方へ運ばれていったものも、あるのかもしれない。
「あんまり川を眺めていると、連れて行かれてしまうよ」
不意に、明瞭な声が耳朶を打った。視線を室内へ戻せば、ニシキさんがじっとこちらを見つめている。
「すみません。自分たちが知らないだけで、流されていったものもあるのだろうなと、思って」
「ああ、あるだろうね。けど、
「確かに。掃除と言うには、少し乱暴な気がしないでもないですが……」
「仕方ない、神様だもの。きみもしかと見ただろう?」
そうだ、小満の村で、筒姫が折節の里を通っていったのも見たのだった。その時は今日のような激しい雨こそ降らなかったけれど、天気雨が降って、虹も架かったのだった。
「暦の上では夏が終わる。ま、そうそう暑さが消えることはないけれど、少し寂しいね」
「そうですね。……でも、ニシキさん、内心では喜んでいるのでは?」
「そりゃあ我が天下たる秋が来るからね! はっはっは、きみに竜田姫のお通りを見せるのが楽しみだよ!」
これから七夕祭りに行くというのに、と言いかけたところへ、がちゃりと部屋のドアから大きな音が響いて来た。思わずびくりと振り返れば、「アズサーッ!」と呼び声が飛んでくる。
「もう、聞いてアズサ! ツヅラったら信じらんないのよ! いつまで経っても買うものを決めやしないったら!」
アメリさんが我儘を言っているのでは、とニシキさんが言っていたけれど、どうやら逆だったらしい。「外れたな」と笑うニシキさんに笑みを返して、自分は呼び声に応じて、戻ってきた二人を出迎えに立ち上がった。
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