春分

雀始巣

 雀始巣すずめはじめてすくう。不安定な天候や寒さが終わりを告げ、ようやく春の暖かさが保たれてきた。いそいそと春の盛りに向けて動いていた生き物たちも、伸び伸びと自在に動き回っている。

 この時期は花粉や黄砂が飛んできてしまうのも困りものだが、だからと言って外に出ないのはもったいない。どんな古木も花を咲かせるように、老爺も春を楽しんで花を咲かせたいものだ。

 とは言え、心が花を咲かせていても、体は衰えている。若い人のように浮かれ騒ぐことは難しい。けれど、それは若さの特権だ。老いには老いの特権、静けさを味わい尽くすという特権がある。雪解け水が勢いよく流れるようでなく、豊富な水で満たされた池のように、穏やかに春を楽しもうと思う。

 たまに強い風が吹くが、天候は良好、良い日和だ。日が当たって温められた縁側に腰かければ、体もぽかぽか温まる。

 座った傍らでは、浮草と浮き球が入った水鉢に、水の注がれる音が響いていた。時に、浮き球が鉢と触れて音を立てている。いにしえの人々は、玉と玉が触れ合う音を玉響たまゆらと評したというが、その感性は一体どこからきたのだろう。「ゆら」という柔らかな響きを、玉の触れ合う透明な音に当てるなんて。


「日向ぼっこ中に失礼。お菓子を持ってきたよ」


 のんびりと流れゆく時間の中へ、どこからともなく女性の声が入ってきた。今日来ないかと誘いの手紙をくれた相手が来たのだ。声の主を確かめてみれば、夕暮れの色合いに片眼鏡モノクルが特徴の人影が現れる。


「やあ、ニシキさん。いらっしゃい」

「お邪魔します。お菓子はここへ置かせてもらうね」


 ニシキという不思議な人は、私の傍らに茶色の紙袋を置いた。前に私がおすすめした、近所の和菓子屋さんの袋だ。何が入っているのだろう。何が入っていても嬉しい。あそこはどのお菓子も美味しいから。


「茶を淹れてきましょう。座って待っててください」

「どうも」


 ニシキさんが座るのと入れ替わりに、台所へ向かう。湯呑は複数あるのだが、来客が無ければ戸棚に仕舞いっぱなしだ。今までよく働いてくれたから、硝子戸の内で、静かに休んでいるようにも見える。私が使っている湯呑だけは、未だに毎日働かせてしまっているが。

 新緑にも似た、柔らかい黄緑の茶を注いで、盆に湯呑を二つ載せて。縁側へ戻れば、ニシキさんの真っすぐな背筋が見える。丸まっていない、年を経ない、人間ではない何かの背中。妻や仲間とは明らかに違う背中が、非日常への小さな扉のようだ。そう妻が言っていたんだったなぁ。面白い例えをすると感心したものだ。


「淹れてきましたよ」

「ありがとう。どら焼きも開けておいたよ」


 色々と思い出しながら戻れば、ビニール袋で包装されたどら焼きが差し出される。どら焼きはニシキさんの膝に一つ、私に差し出されて一つ。この店のどら焼きはつぶあんだ。こしあんも滑らかで美味しいが、しっかり食べた気分になれるのが嬉しいから、私と妻はつぶあん派だった。


「じゃ、ありがたく、いただきます」


 受け取りながら腰掛けて、封を開けた。春の日差しで、ビニールが水面のようにきらきらして、綺麗なものだ。一齧りした後、断面から覗くつぶあんも、艶やかに光っている。

 口内に昔ながらの味を感じながら、ニシキさんと並んで、何てことのない田舎の風景を眺める。庭木の縁取りから覗く家屋と、土が掘り返されて準備を整えた田畑。遠望には山々が連なり、その頭にはまだ雪が残っている。


「ここに住んで、もう何十年も経ちます。あまり遠いところへ行くこともなく、ここにずっと暮らしてきました」

「住み心地が良ければ、ずっとそこにいればいいもの。自分の家とその周りにさえ、小さな発見が転がっていると気付けば、毎日楽しいからね」


 問わず語りになるかと思ったが、ニシキさんは相槌を返してくれた。楽しく、弾むような相槌だった。


「うちは違ったかもしれません。渡りをする鳥のように、色んなところへ行っていたら……」


 いや、無粋か。私と妻はここに住むことを選び、そうして長いこと一緒に生きてきた。それが私たちの人生、とても美しい時間だった。羞恥もなく言い切ってしまえるほどに。


「良い巣を築くこともまた、素晴らしいことだよ。この頃は雀が巣を作る頃だというけれど、良い巣を作り、雛を授かり、無事に巣立たせられる雀がどれだけいるか。どんな生き物でも同じこと。あなたがたご夫婦は、滅多にないことの一つを成し遂げたわけだ」


 柔らかい茶色の髪を揺らして、ニシキさんが笑う。ああ、自分で思っていても、誰かに言ってもらうと心が温かくなる。あまり人の声を聞く機会に恵まれないから、なおのこと。

 もう、彼岸も過ぎて寒くなくなったが、暖炉に薪をくべられたかのような心地がする。飛ぶほどの力にはならなくても、ここで余生を過ごすためには、じゅうぶんな炎を渡されたようだ。

 思えば、ニシキさんと文通していたのは妻の方で、私は引き継いでいるだけに過ぎない。それだけに過ぎないのだが、妻が渡してくれた縁が、こうして私を生かし続けてくれている。

 噂をしたからか、雀の鳴く声が聞こえてきた。忙しない椋鳥むくどりの声もする。鳥の声を乗せた春風に、妻の笑い声も混じっているような気がした。

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