桃始笑
吹く風は温さが勝り、現世では出歩く人々が増えてきた中、折節の里でも花見をしようと動く影が数多あった。折節の里では、定められた季節を繰り返すのが常。花見頃もまた繰り返す。しかし、現世と暦が重なると影響を受け、至上の美しさを誇る頃合いが訪れる。それを見計らって、他の村から啓蟄の村へ、多くの住人たちが集ってくるのだ。
「やはり、里にしては人が多くなってきたなぁ」
「小生のように、普段は里にいない者も入ってきているだろうからな」
緑が増え、田んぼの土がふっくらとしているところも見える畦道を、ニシキと連れ立って歩く。先日、ニシキが花見をしようと招待の手紙を出してきて、小生も乗っかった。現世でも花見はできるが、こちらの方が落ち着いて過ごせる。今日が現世ではホワイトデーだということで、ニシキたちが菓子を持参してきたから、口も退屈しない。
小生たちと同じく、花見ができる場所へ向かう者たちはのんびり進んでいるため、畦道には歩く人が点在している。春という季節は、歩くだけで心が満たされるから、急ぐ者はいないのだ。
溶かしたての絵の具をふんだんに使ったような青空に、黄緑と薄紅が笑う山。蓮華や
春の喜びをそれぞれ噛みしめるのもいいが、全身で享受し、春に遣わされてきたとばかりに動くものを見るのもいい。小生とニシキから離れた前方では、人の姿を取った宝石の少女が、自分の髪と裾を軽やかに遊ばせている。彼女の隣で相槌を打っている、人の姿を取った雁の青年も、いつもより足取りが軽やかだ。
アメリと名乗る宝石嬢と、梓と名付けられた配達員は、何故か姉弟関係を築いている。魔女の家に受け継がれてきたという宝石と、渡る力を失い死にかけた鳥。奇妙な取り合わせだ。ニシキが住む
ぽつぽつと状況確認めいた会話をしながら、宝石嬢と配達員の後を追う事しばらく。畦道は山道へと変わり、木に咲く花々がより近くへ迫ってきた。
冬の間からずっと咲いている椿に、梅や桃といった春告げの花。木蓮も紫と白が咲いている。春を寿ぐように大きく、紅白を連想させるような色合いで。雨でも降ったのか、鳥が散らしてしまったのか、木の根元には花びらが少し落ちていた。茶色へ変色しつつあるが、ぱっと目を引く華やかさは失われていない。
山中には当然、冷たさを纏った草木と土の匂いが満ちているが、花の香りも泳いでいた。姿を見ていない沈丁花の香りも。数多の花が、それぞれの魅力を存分に発揮しながら、しかし喧しくなりすぎないよう優美に立ち並んでいる。ああ、本当に、小生たちは春の只中へ進んでいるのだ。
言葉少なに楽しんできた春景色の終点は、開けた山頂。ニシキと梓が、佐保姫の巡行を見た場所でもある。一気に開けた空の下、それぞれの春衣を纏った山々が、素朴に笑い連なっていた。こちらまで微笑を浮かべてしまうような、和やかな景色だ。空気も清々しく、心地いい。
「ニシキーっ、ツヅラーっ!」
梓君を連れてずんずん先行していた宝石嬢が、ついでに良いところを見つけてくれたらしく、こちらへ大きく手を振っている。手を振り返すのはニシキに任せ、小生たちはやっと二人に追いついた。
「全く、君たちときたら。きちんと花を見てきたのかい?」
「当たり前じゃない。綺麗だったわよね、アズサ」
「はい。桃の花、梅の花……冬の頃より赤みが増しているようで、美しかったです」
ふんわりと微笑む梓君は、嘘をついているようには見えない。というか、こんなに柔らかく笑うようになったのか。ここに落ち着き、そして馴染んだのだろうな。
「じっくり見たのならよろしい。それじゃあ、山々の笑顔を見ながら、アフターヌーンティーと洒落込もうか」
夕方ではないのだから八つ時でいいだろう、と言いかけて呑み込む。そんなことはニシキも分かっているだろうし、何より、わっと喜ぶ宝石嬢に水を差しては悪い。
菓子を詰めた風呂敷包みを運んできたニシキに変わり、小生を含めた三人でレジャーシートを広げる。四人が座るのにじゅうぶんな広さだ。風で飛ばないようすぐに全員が座り、中央に
美しい
「……ずいぶん大量に焼いたんだな、お前たち」
「そりゃあそうよ。美味しいお菓子はたくさんあった方が嬉しいもの」
自慢げに笑う宝石嬢の隣、同意を求められなくても、梓君がしっかり頷いている。ずいぶん仲良くなったものだと眺めていれば、ずいっと紙コップが差し出された。アールグレイの気品ある温かな香りが、冷えた鼻をくすぐる。
「美味しいお菓子には、美味しいお茶が付いていれば、なおのこと嬉しい。そうだろう、葛籠」
「無論だ。では、ありがたくいただかせてもらう」
紅茶を片手に、最初から目を付けていた、極めてシンプルな丸いクッキーを摘まむ。小生を皮切りに、三人も好きなクッキーを口に運んでいた。
ほろりと砕けるクッキーから、懐かしく優しい味が落ちてくる。すぐに紅茶で流すのが勿体なくて、小生は春の山々へ視線を投げた。季節の巡りに笑う景色と、素朴なクッキーの味は似ていて、二つとも胸の奥深くへ落ちてくるような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます