第23話

 最近、張りつめすぎていたのかもしれない。村田夫人の屋敷で起きた出来事は美琴と竹内、橋本とすべての指揮をとっていた松柴だけが知っていた。しかし、美琴が二週間以上、休暇を取っていたことで周りも何かあったのではないかと不審がっていた。


「DNAの結果はまだ出ないか」


「科捜研の方に話してますが、まだ二、三日は……」


「そう……か。急かせて悪かった」


「いえ。俺も同じ気持ちなので」


美琴たちはDNA鑑定の結果が出るまで、そわそわとした毎日を送っていた。これ以上の進展もなく、考えられるのは美琴が掴んだと思われる犯人の痕跡のみ。しかし、こう時間を浪費しているわけにもいかない。そう考えた美琴は立ち上がり、竹内へ声をかける。嫌煙していた「あれ」に整理をつけなければならない。私たちが犯人を逮捕するためには、必要な儀式なようなものだと美琴は考えた。


 竹内と美琴は古いアパートの外階段を歩いていた。コンクリートでできた段差は一段一段しっかりとしていて、昔は一段上がるのも大変だったなと美琴は思う。あんなに大きく感じた階段も、今となっては軽々上がっていって、目的の階まですぐに着いてしまう。


「何号室ですか?」


「三〇六号室だ。階段を上がったところの左手にあるドア。そこだよ」


竹内は美琴よりも先に三階へ着いて、三〇六号室のドアノブに手をかける。捻ればすぐに開くはずだが一度、美琴の方へ視線を向けた。


「いいよ。気遣いありがとう。もう決心をつけてここへ来ているんだ」


「次は俺の番っすからね。今回は美琴さんの番です」


そう。美琴たちは自分たちの家族が被害にあった現場へ足を運んでいた。竹内は初め渋っていたが、美琴の思いを伝えたうえで話し合い、行くと結論づけた。


「変わらないな」


玄関の扉を開くと、正面は渡り廊下ではなく、トイレのある扉が十メートル先に見える。

右手には靴棚があり、その上には自転車の鍵や、家の鍵も無造作に置かれていた。左手にはシンクのある台所があり、少し背の高い机がその正面に置かれていた。机に敷かれている青と白のチェック柄のテーブルクロスに、まだらに黒いしみがついている。シンクの下にある棚の扉は半開きになっており、包丁の柄がはみ出ていた。中の包丁一本が包丁入れの縁に引っかかって、取り出せなかった様子が今にも動き出しそうなほどそのままに残っていた。床にはフォークやスプーン、箸などが散乱しており、争った形跡がある。


「ひどいっすね。うちよりもひどい」


「確かに中はひどい荒れようだね。こんなものだったかと忘れていたよ」


竹内は表情を窺うような視線を、美琴へ向ける。彼女の表情は小さな窓から差し込む光がシンクや棚に阻まれて当たっていないせいか見えず、すぐに他へ視線を移した。その逸らした視線は、部屋の隅に転がった立てかけの写真入れを見つけてしまった。表面のガラスが割れて、中の写真はみえにくくなっていた。竹内は写真の所へ近づいていき、その写真を見ようとしゃがみ込んだ。


「立て!! 竹内警部補! それは私が確認する」


竹内の足音に気が付いて、後ろを振り向くと大声をあげて竹内の動きを制止した。竹内も突然の大声に肩を震わせ、慌てて立ち上がった。美琴の方を振り向くと、冷たい視線を竹内に向けて部屋の奥――リビングを視線で示した。


「すみません。今すぐ行きます」


美琴はゆっくりと写真のある方へ近づいていき、それを拾い上げた。もちろん手には白手袋をして現場保存に努めている。しかし、拾い上げた振動で少しガラスが縁から零れ落ちた。

写真には見覚えのある姿が三つ。父親と、母親、そして一歳の弟の姿が撮られたものだった。カメラに向かってみんな笑顔に写っている。美琴はその写真をシンクに、写真の方を下にして置いた。


「さっきはすまなかった。私も久しぶりの実家で気が気ではないらしい。自分でも驚くほどの疲弊具合だ」


「気にする必要はないっすけど……大丈夫っすか?」


「ああ。捜査を続けてくれ。私の覚えている限り、父の怪しい交友関係は借金の取り立てだった。あれの明細や、契約書関連が見つかれば、犯人に近い人間の名前や、所在地を見つけられるかもしれない」


台所とリビングを分ける襖を開ける。荒れていた台所とは違い、和室のリビングは綺麗だった。踏みしめると軋む畳床も、部屋の隅っこにある黒ずんだ染みも全てが懐かしくも恨めしい。ここで過ごしていた日々は、今となれば分かりやすい地獄だった。


人間とは恐ろしいもので、そこに長くいるとそれが当たり前になっていく。そんな生活を送っていることが、自分の中の汚点であると気づくのに五年の月日を費やした。桐のタンスも、黒色のテレビ台も、そこに父が寝そべっているかのような錯覚を思い起こさせる。あの光景が今にも幻影のように映し出されて、タンスの二段目に入っている百均のポケットライターを取りに、走らなければならないと心が駆り立てられる。


「うう。やめてくれ」


「ん?」


竹内が桐のタンスの一段目の引き出しを漁っている最中に、美琴が頭を抱えて膝をついた。ぶんぶんと首を振りながら、自身の髪を強く掴んで引き抜こうとしているのかと思うくらい力がこもっていた。竹内は一人で何か言葉を呟いている美琴に気が付き、振り返った。


「……だいじょうですか!?」


慌てて駆け寄って美琴の背中をさすりながら声をかける。しかし、美琴の耳には何も届いていないのか、「やめてくれ」と言葉を続けて頭を抱えるばかりだった。竹内はその姿を見て、彼女の覚悟がどれほどであったか知らされた。

自分は母と過ごしたあの家に戻っても、母との楽しかった日々が思い起こされて犯人への恨みが大きくなるだけだが、美琴にとってこの場所はもっと違う意味を持っているらしかった。美琴の持つ感情が何であるかまでは竹内に見通すことはできなかったが、それが少なくても苦しいものであるのは火を見るよりも明らかだ。竹内はしばらく美琴の背中をさすりながら、返事のない声掛けを続けていた。


「落ち着きましたか?」


「ああ。すまない。見苦しい姿を見せてしまったね」


竹内が買ってきたホットのお茶を握り締めながら美琴は俯いていた。部屋のリビングと台所にある段差の上に腰を下ろして、横に竹内が座っていた。


「いえ……あまり、知りませんでした。美琴さんがここまで取り乱すのも見たことなかったですし、美琴さんのこんな姿……ここ出ますか?」


竹内は少し言葉に詰まらせながら、意を決した様に口にする。美琴は力なく首を横に振ってそれを否定した。


「いや、いい。私の家族とのことは私がケリをつけるべきことであって、仕事の邪魔になっていいことじゃない。でも、できるだけ早く探し物が見つかるといいかな」


美琴は力なく笑い、竹内は少し目を見開いた。それから視線を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。


「美琴さんはそこで座っていてください。俺が探しますから。ここで何があったのか。それは俺には分かりませんが、上司がそんな顔で無理してる姿は後輩としては見ていたくありませんから」


「すまな――」


「違いますよ! 上司がそんなんじゃ、将来そうなる可能性が自分にもあって嫌なだけです」


竹内は少し苛立たせながら美琴へ言葉を返して、リビングの方へ行ってしまった。美琴は何も言葉を返さずに、ぼんやりと台所を見つめていた。


 美琴と竹内は三〇六号室の扉を背にして、外階段を下りていった。


「何も見つからなかったですね」


竹内は明らかに声を落として、手足を放り出して一段一段下りていた。コンクリートでできた階段は甲高い音をよく響かせていた。美琴もそれに頷き、息を吐いた。


「そうだね。私も僅かながらの希望を掴もうと思っていたが、何の成果も得られなかった」


「これからうちに行くのはいいんですけど、やっぱりなんもないと思うんですよ。美琴さんの家……なんていうか、美琴さんの言ってたような怪しい影みたいなものはうちの母には正直なかったんです。だから――」


「勘違いしない方がいい。どんな人間にもそういった側面はあるんだ。君のお母さんが何もなかったっていう確証はない。もちろん息子である君に疑えとは言わない。それは君の姿を見ていれば随分酷なことであると思うが。しかし、それでも連れて行ってほしい。今度は私が君の家の捜査をする番だ」


美琴が言い終わると、竹内は階段を下りるのを止めて、すごい勢いで美琴の方を振り返った。


「美琴さん。あまり母のこと悪く言うのは、やめていただけますか? 俺は母さんのことを信じてます。何もしちゃいない。真面目な人だった」


明らかに怒りのこもった声だった。美琴は余計なことを言いすぎたと身をすくめた。しかし、美琴の意見は変わらなかった。


「君の機嫌を損ねてしまったなら謝ろう。しかし、その故人への優しさで何か変わったか? 違うだろう。君の正論は一般人には良く刺さる。しかし、こんな事件を起こすような凶悪殺人鬼には刺さらないよ。君がそいつを始末するんだろう?」


美琴は冷たい視線で竹内を見据えて、あえてきつく言った。自分だってあれだけ過去の家で取り乱しておいて、こんなことを言うのは火を噴くように恥ずかしい。しかし、それを言っていてはこの事件の犯人逮捕には繋がらないし、彼の母への愛がこれだけ強いなら彼の願いを成就させてあげたいと心から美琴は思っていた。


「は……い」


竹内はこれ以上反論しなかった。我ながらずるい真似をしたと思っているが、それでも彼の思いを優先するなら当然の行動だと美琴は自分を信じた。


 集合団地の隙間風がひどい扉を押した。随分と重い扉で、扉と扉の建付けが良くないのか、ヒューと悲鳴のような音を出していた。重い扉を半分くらい開くと後ろから吹く風にさらわれて思った以上に開いてしまう。


「おっと」


竹内が美琴の肩を掴んで、途中まで攫われたところを引き止める。美琴は「ありがとう」と言って扉から手を離した。手を離すと扉はそのまま折りたたまれるような形で、強化ガラスと取っ手がぶつかってゴンと鈍い音がした。


「ここは風が強いね。よく扉に身体が持っていかれそうになる」


「そうなんですよね。昔は開くのも一苦労でしたよ」


美琴はそのままエレベーターのボタンを押して、降りてくるのを待った。

以前、竹内が母親について話していたことを美琴は思い出す。おおらかな人物で、こういった凶悪事件の殺人鬼とは、何の関係性もないと竹内は言っていた。そんな母親が事件に巻き込まれた理由が分からなかった竹内は、母の死にずいぶん荒れていたとらしい。

伏し目がちにそう話していた彼の目尻には、涙が溜まって今にも落ちてしまいそうだった。


――家族か。美琴は改めて家族のことを思い出す。父のことが好きだった、母にも愛されていたと思っていた。しかし、それは今思えばただの防衛本能のようなものだったのかもしれない。そう思わなければ自分が壊れてしまうから。

「あの日」から彼らは他人となり、死んでいようと居なくなろうとどうでもよくなってしまったのだから。


「着きましたよ」


チーンと機械音と共に扉が開き、竹内が先を歩いてエレベーターの右手へ歩いて行った。美琴もその後を追うように歩いた。竹内がある扉の前で止まった。ゾウのシールが貼ってある扉の前。黒ずんで、今では何色なのかも分からない。下手したら、遠目では汚れにしか見えないかもしれないものだった。


「ここか」


「はい。俺がこれ貼ったんですよ。昔は部屋の番号とか覚えられなくて、どれも同じ扉だから、シールを貼れば分かりやすいでしょう?」


「そうだね。でもこれじゃあ、ゾウのシールが貼ってあるって分からないよ」


竹内は笑った。「ほんとですね」と口にしながら少し寂し気に、ドアノブに手をかけた。竹内は扉を開くと、当たり前のように靴を脱いだ。美琴も少し驚いたが、靴を脱いで渡り廊下に上がった。


「どうぞ」


まるで今でも住んでいるかのような口ぶりで招かれて、美琴もつい「お邪魔します」なんて口にしていた。入口のすぐ左隣は竹内の部屋だと紹介された。

目的の部屋は奥だった。渡り廊下の突き当りにある扉の向こうがリビングだった。リビングを開くと、むわっと蒸し暑い空気が流れ込んだ。室内の白い壁紙にはところどころに斑模様の血痕が飛び散り、真ん中には横転した椅子が一脚あった。椅子の辺りには特に血痕の跡が酷く、黒ずんでいた。まばらに散った血痕は生々しく残っていたが、美琴の実家のような争った形跡は微塵もなかった。


「随分と綺麗だね」


「そのまま残してるんですけどね。ほんっと、馬鹿げてますよね」


竹内はふるふると肩を震わせた。美琴は竹内の背中を見つめて首を傾げた。


「?」


「だってそうでしょう。これだけ血痕が残ってて、現場も残ってるのに、遺体がないからって、失踪だなんていうやつもいるんですよ。見てねぇだろって……」


竹内は膝から崩れ落ちて正面に置かれた血濡れの椅子を呆然と見つめていた。なんでこんなことになったのか竹内はそんな心に囚われていた。美琴はその姿を横目に、リビングから一直線に奥の部屋へ向かった。自分からあれだけ啖呵を切ったのだ、自分が動かなければならない。彼の心の傷がここへ来ることで増幅することは理解できていた。美琴は奥の扉を開いた。

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