第19話
今日は彼女を僕の家に招待する日。彼女と出会ってからずっと胸の鼓動が止まらない。彼女のことを考えているとき、彼女と隣を歩いているとき、初めて彼女の家で僕のことを知られたとき、様々な思い出が頭を巡らせる。
僕は今日こそ彼女へ告げる。僕が今までしてきたこと。僕が殺しを仕事として行っていること。僕は『彼』から離れることができず、彼女と永遠にいられないこと。
僕が彼女を愛していること――――――
「あー。考えれば考えるほど怖気づきそうになる」
「何が?」
「うわぁ!!」
僕の肩から顔を覗かせて、彼女が僕を見つめていた。わざとではないが、僕の肩に顎を乗せて僕を見つめている彼女があまりにも愛らしいせいで頬が熱を持つ。
彼女のその愛らしい顔を長時間見つめていられないため、すぐに目を逸らす。きっと僕の顔は真っ赤だっただろう。慌てて顔を覆ってそれを隠そうとする。しかし、彼女は僕にそれを許さない。腕を掴んでぎゅっと顔を押し付けてきた。僕は彼女の方を見ずに呼吸を整えるため息を吐いてから、大きく空気を吸い込んだ。
「あ、ああ、あの。何でもないんです。今日はいっぱい美知子さんとお話ししたいなって」
「なーんだ。家についてからナニしようかと想像してニヤニヤしてるのかと思った」
「な゛っ!?」
瞬間的に顔の熱が百度を超えて沸騰してしまう。僕は恐ろしく低い声音で反応してしまった。彼女はそんな僕の驚いた表情を見てクスクスと笑い始めた。
「や、やめてくださいよ」
「ふーん? 顔真っ赤だよ?」
僕は自身の頬に触れる。自分でもわかるほど、かなりの熱を帯びている。ぶんぶんと首を横に振ってそんなやましい気持ちはなかったと否定するが、彼女はじろりと僕の顔を見つめて口端を上げた。
「えっち」
「ん!!!!!!」
なんとも声にならない声が出てしまった。
彼女はさっきのくだりを永遠と笑っていた。彼女のその笑顔見て、僕も頬を緩ませる。彼女のその姿を見るだけで僕のすべてが肯定されている気がする。彼女とのこの時間が永遠に続いてくれれば――――
「なーに考えてるの?」
「い、いや何も」
「ふーん。またえっちなこと考えてるのかと思った」
「ぶっ!」
何も口に含んでいないのに空気を噴き出してしまう。彼女はまた大きく笑い、僕もそれにつられて笑ってしまう。いつもならそんなこと続け様に言うような人じゃない。何かおかしい。
「あの。どうしたんです? 今日様子がおかしいですけど……」
「おかしいって失礼だなぁー。なんかちょっと、嬉しくなっちゃって」
彼女は僕の指趾に指を絡めてぎゅっと握った。振り向きざまの彼女の作り笑いは、どこか寂しそうな表情にみえた。僕は少し気になって彼女の表情を窺おうとするが、僕の歩く速度より早く、手を引っ張るように先を歩いて行ってしまう。僕は彼女の背中を見つめながら、彼女の温かい手の熱を感じていた。
「あのさ」
「はい?」
「女同士だってことは分かってるの。だけどね。私やっぱり、あなたのことが好き」
「え」
僕の家にはまだ着いていない。僕が先にそれを言おうとしていたのに、彼女からそれを先に言われてしまった。先に言われる返しなんて用意していなかった。僕はなんて返せばいいのだろう。
周囲へ視線を向けて何か答えを探すように――
「あれ」
僕は彼女の後ろにある公園を指さした。その公園は彼女と初めて会ったあの場所だった。僕の指さす先を見つめて、彼女は顔を綻ばせた。彼女にとって勇気のいるものだったのだろう。彼女の顔はさっきまでずっと強張っていた。それが緩んだことで少し自分に余裕ができた。
「あそこに座りましょ?」
「うん」
木下に囲むように作られたベンチへ二人で腰掛けた。風に揺れるブランコがキィーキィーと音を立てて前後に揺れている。まるで自分の心のようだと服の上から胸を掴んだ。緊張? いや、そんなものではない。今生の別になることだ。僕はこれから悪魔にでもなるのだろうか。彼女と出会い、初めて自分の将来のことを考えた気がする。彼女に全てを伝えなきゃ行けないと思うと言葉が口を出ない。
「どうしたの?」
「さっきの言葉……とても嬉しかったです。僕も、将来愛する人が出てくるのなら貴方だけだと思います」
「え……ありがとう?」
僕は精一杯の息を吸った。彼女とのことを思い浮かべる。どれも鮮やかな綺麗な世界だった。
僕にとって彼女は――――
「でも、僕はあなたと一緒には居られません。僕は犯罪者だから」
「え」
僕は彼女の顔を見られなかった。灰色の砂を見つめていると、そこにある何気ない模様が人の顔に見えてくる。心臓がキュッと締め付けられるような感覚に陥り、服の上から胸を掴む。
「なんで、そんな嘘つくの?」
「嘘じゃないんです。あなたに見せていた姿が嘘だったんです」
「嘘っ!!! そんなわけない!」
「本当にごめんなさい。僕のせいであなたを悲しませることになるなんて……わ、分かってたんです…………けど………………僕のエゴでこの関係を続けていました」
彼女は僕の肩を強く掴んだ。その力は彼女の非力な腕からは想像できないくらい力強く、僕の握られる肩は恐ろしく非力だった。
「騙してたの?」
「騙してました」
「犯罪者ってなに?」
「さつ……」
僕は言葉に詰まらせた。
――殺人
そんな一言が声にならなかった。そう口にしたらどう思われるのか、今になって怖くなってしまった。
「ねぇ、なんで黙ってるの?」
「……」
「そんなんじゃ分かんないよ。私、『みこと』のこともっと知りたい」
彼女の震えが掴む手から伝わってくる。その掴む手もだんだんと弱くなり、やがて僕の肩から離れていった。なんだろうこの感覚。
――彼女を殺したい。
殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい――――――――
「僕は……」
僕は彼女の首に手をかけようと手を伸ばす。彼女は黒瞳で僕をしっかりと見据えて、僕の手をどうしようともする様子がなかった。すぐに殺せる。僕はその手を彼女の首にかけるとゆっくりと締める。
「そうなのね」
彼女はか細い声で絞り出すようにそう口にした。僕は彼女を押し倒す。公園の地面に彼女は背中をつけて僕の顔をじっと見つめていた。僕はだんだんと力を込めて彼女の首を絞める。まるで空気の入った風船に同じように力を加えたかのように、唇を噛み締めていた彼女は口を緩めて息を吐いた。
「あ……し…………る」
彼女の言葉を耳にして僕の中の何かがぞわぞわっと身体の中を這い回った。さらに力を込めて彼女をそのまま――――
「何してる!!!」
僕は誰かの声を聞いて、パッと手を離した。彼女は空気を大きく吸い込むようにして咳き込んだ。走る足音を聞いて、僕はその場から急いで離れた。彼女を置いて僕はがむしゃらに逃げて屋敷へ向かった。
「おかえりなさいませ」
「あ」
僕は掃除屋の彼を見て会釈した。すぐに視線を逸らし、彼の横を抜けて行こうとする。
「あ、お待ちを」
「……今、急いでるから」
早足で彼の横を通り過ぎようとするが、腕を掴まれた。振り解く気力も、その掴まれた腕ごと進む力も僕にはなく、立ち止まり振り返った。
「あのお家ですが、今日中に片付けさせていただきます」
「ああ」
作った家のことをすっかり忘れていた。もうどうでもいい。僕の居場所がここに戻っただけだから。僕は掃除屋の彼から離れ、玄関の扉を開けた。
「何してる」
「あ」
黒のスーツに真っ黒なサングラスの男。『彼』だ。僕はその顔を見てホッと胸を撫で下ろした。この人は何があっても僕を手放さない。僕の正体を受け入れ、認めてくれる存在だ。
『彼』から呼ばれて屋敷の一室へ入ると、中は妙に薄暗かった。誰もいないのではないかと錯覚するほど静まり返って、蛇口から少量の水の零れた音がよく響いた。
「よく来たな」
『彼』の声が聞こえる。『彼』はだれかが座るソファーの前に立って、こちらへ首を向けていた。僕が軽く会釈をすると、暗闇でもよく分かるくらい口角を上げて笑っていた。『彼』の笑顔を見るたびに、僕は『彼』が笑うたび不気味に感じていたが、今日ほど気味が悪いと感じたことは初めてだった。
「今日は何の用で?」
「仕事だ。最後のな」
「最後?」
僕は訝し気に『彼』に寄っていったところで、彼の前に座っている人間へ意識が向いた。
「今日のターゲ………」
僕は息を止めた。これ以上言葉を口にすることを憚った。僕は彼女にこれ以上のことを知られたくなかった。竹内美知子。僕の愛する人。彼女が怯えた目で僕を見ている。口はガムテープで塞がれていて、手は後ろ手に縛られていた。僕は咄嗟に近づいて口元のガムテープへ手をかける。その後ろで『彼』が声で制止する。
「今日のターゲットだ。意味は分かるだろ?」
「受け入れられない」
僕が『彼』の申し入れを拒絶したことなどない。しかし今回ばかりは受け入れられなかった。僕は『彼』の制止を聞き入れず、美知子さんの口からガムテープを剝がした。
「…………ぷはっ。な、なんで…………」
「…………今は」
「逃がすわけないだろ。ここはお前でも出られないよ」
僕は辺りを見回した。特に潜んでいる人間がいるわけでもない。鍵がかかっていたとしても、それを壊すことくらい僕には容易い。それよりも彼女をここから遠ざけることだけが僕の思考を埋め尽くした。
「彼女はここから逃がします。彼女が死ななきゃいけない道理はない」
「……はっはっは。お前が道理を説くなよ。今までの殺した人間たちも、お前の理屈なら死ぬ道理なんてないだろう」
「ねぇ、何の話をしているの?」
「美知子さん、ごめん。僕はあなたを騙していた。でもこれだけは――――」
「人の心を持った殺人鬼などいらない。俺が欲しているのは、お前のように人の心を理解しようともしない殺人鬼だよ」
「どう………いう」
美知子さんから疑いの眼差しを向けられる。僕はそれを受け止められない。彼女から目を逸らして、『彼』の話に耳を塞いで、僕は黙々と彼女の縄を解いた。
「その女を開放してどうなる? お前の悪事が露呈して、お前は刑務所行きだろ。そんなことを望んでいたのか? 自由が欲しいとそう言っていたのは噓だったのか?」
「僕の求める自由は彼女の死の上に成り立たない」
「その女が今ここで死ぬことが、お前の自由を加速させる。それを俺だけが保証できる」
「あなたが僕を縛り付けているから、そう言えるのは確かでも、そのために彼女が死んでいいなんて僕は思わない」
彼女の縄を解いて、自分の背中に隠して『彼』から少しでも遠ざけようとする。しかし、彼女は「ねぇ、どういうこと!?」と僕に問いかけてくる。僕が今やらなければならないのは、『彼』が彼女に手をかけない様に守ること。
「これだったんだ」
僕は今更になって、昔に彼女へかけた言葉を思い出す。僕が守ると。あの時はどうすればいいのか分からなかったが、今ならわかる。彼女の命と僕の命の天秤の話だ。彼女のためなら僕の命は遥かに軽かった。これが守るということなら納得がいった。
「美知子さん。事情は今聞かないでください。ここから逃げられるように僕が時間を稼ぎます」
「なんで!? あなたはなんなの? ねぇ、教えてよ!」
「…………人殺しです。僕は感情なんてない、人殺しです」
僕はそう言いながら腰に隠していたサバイバルナイフを取り出した。震える手をもう片方の手で支えるように、切っ先を『彼』へと向ける。
「それは私への反逆か?」
「そ、そうです。彼女だけは無理です」
「なるほどな。それほどまでに、その女にほだされていたのか」
『彼』は僕の後ろにいる美知子さんへ視線を向けたような気がした。僕は必死にその切っ先を向けてじりじりと近寄っていく。
「お前はこのまま人を何百と殺す英雄となるんだぞ」
「そんなものになりたくない」
「お前も、その女も俺に逆らうなら殺すぞ」
僕はぞくっと怖気が走る。背中に走る悪寒が震えになって表面化する。恐怖という感情が僕にもあったのかと、妙なところで成長を感じてしまっていた。僕がサバイバルナイフを『彼』に振り下ろせる距離まで来たところで、後ろからそっと手が伸びてきた。
「え」
「そうなんだ。『みこと』はずっとこの人に支配されてたのね。彼がずっと寂しそうにしていた理由がやっと分かった」
「ほう。こんな状況でも平常心を保っていられるとは興味深い女だな」
「全く知らない他人なら怖いわよ。でも、私の彼――娘が泣きながら貴方に反抗してるんだから、親の私が動かないでどうするのよ」
僕は泣いていたのか。彼女の手は本当に暖かかった。ナイフを握る手は緩み、そっとそのナイフは彼女に取られてしまった。
――間隙、僕が振り返るよりも先に彼女の「ぐふっ」という鈍い声が耳に届いた。僕がその姿を目の当たりにするより先に『彼』が嗤った。
「な……」
「『みこと』聞いて。あなたのこと、今でも愛してる」
僕は彼女の言葉なんて耳に届かなかった。僕のサバイバルナイフが、彼女の腹部に突き立てられていた。急いでそのナイフを引き抜こうとして、手を止めた。
「出血がひどくなるから抜けない」
抜いてはいけない。彼女は自身でそのナイフを突き立てたが、深々と刺さっていた。それを抜こうとすれば、出血がひどくなり出血多量で死んでしまう。頭の中でいろいろと巡らせてみるが、答えは一つしかなかった。
「お、お願いします。救急車を呼んでください」
僕は『彼』に深々と頭を下げて、土下座で懇願した。ここは『彼』の屋敷だ。彼女が助かるには救急車をここによんでもらうしか方法はない。
「く。くはははは。面白いな。救急車? 俺がここでそんなことをすれば、自らが殺人を行っていると証明するようなものだ。するわけないだろう」
「お願いします。僕は一生あなたのもとで働きますから。彼女だけは」
「その女は自分でナイフを突き立てたんだ。分かるだろう? 自殺だよ、自殺」
僕は下唇を強く噛みしめた。
――彼女の命が助からない。
僕はどうすればいいのか分からず、大粒の涙をこぼした。自分でもわかるほど情けなく、泣いて『彼』に懇願していた。しかし、『彼』が僕の言うことを聞いてくれる素振りは一向にない。僕はひたすら頭を下げていると、後ろから消え入りそうな声で彼女が僕に声をかけた。
「『みこと』、聞いて」
「美知子さん」
僕が振り向くと、彼女はあの太陽のように明るい溌溂とした笑顔を見せていた。ぐちゃぐちゃのその顔に彼女は触れて、また笑顔を見せた。
「大丈夫。貴方は人の心が分からない殺人鬼なんかじゃない。貴方はだれよりも優しい人。泣かないで」
「でもっ……ぐすっ。美知子さん! 僕、どうすれば」
彼女は僕の手を強く引いて、口元に僕の耳を当てた。
「あなたは大丈夫。今も、これからも、私はあなたを愛しているわ」
「だ――」
ダメだと口にしようとするよりも早く、美知子の手が力なく床に落ちた。ゆっくりと冷たくなる彼女の手を握りながら僕は彼女を呼び続けた。
僕はぐったりと動かなくなった美知子さんの身体にそっと触れた。あの時、僕が倒れそうになったとき彼女が助けてくれた。
あの時はまるで太陽みたいに暖かく、優しい熱を感じた彼女の手はひんやりと冷たかった。まるで道端の石ころに触れた時のような無機物の冷たさだ。彼女は魂が抜けて無機物へ変わってしまった。僕は彼女の死をそう理解した。
横で立っていた『彼』が何か口にしているが、水中にでもいるかのように声は遠く耳へは届かない。彼女の腹部を刺したナイフは抜けて床に転がっていた。ソファーの上で眠るように息絶えた彼女の肩を揺する。
一度、二度、三度……。
彼女は目を覚まさない。今まで、殺害した人たちが人間から無機物へ変わったと感じたことがなかった。彼ら彼女らは元から無機物で、刺した時も熱を感じることなんてなかった。彼女とは過ごしてきた一年近い記憶があり、思いがあり、熱があった。その全てが、ダムの決壊と共に流れ出る水の如く僕の頭から、心から流れていく。
――分からない。
彼女はなんで自分の腹を刺したのか。僕が握って刺すことができなかったナイフを容易に突き立てることができたのか。死ななければならなかったのは彼女なのか僕には分からなかった。
「いくぞ。お前にはまだ仕事がある。大仕事だ。きっとやれる」
『彼』の声がやっと耳に届いた。僕は『彼』の声が耳に届いただけで何を言っているのか理解できなかった。何を言っているのか。彼女が死んでしまったのだぞ。
僕は大声をあげ、床に転がったナイフを『彼』に突き立てようとも思ったが、喉は潰れたように言葉を紡がず、手は拳を作ることもできないくらい力が入らない。強烈な喪失感というものに襲われる。立っているのがやっとで、僕は『彼』に腕を引かれて部屋を後にしようとしていることすら気づいていなかった。
僕の目は彼女が最後、口端に血を垂らしながら笑っていた顔が焼き付いて離れない。何故笑ったのか。なぜ僕とここから逃げて暮らしてくれなかったのか。これが悔やみなのか、悲しみなのか、はたまた僕の言う通りにしてくれなかった彼女への怒りなのか分らない。
――何か見えない糸の切れる音がした。
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