第15話

 僕は美知子さんの手に触れてゆっくりとそこから離す。言葉が出てこない。彼女にはいつか言わなければならないと思っていた。でも、この心地のいい世界に浸かっていたかった。そんな自分の欲望が制御できずに、今回のことを招いてしまった。僕はとりあえず立ち上がり、彼女へ頭を下げた。


「ごめんなさい。こうなることも僕は分かっていたのに、言い出せませんでした……僕、帰ります」


僕がリビングのソファーから立ちあがり、リビングと渡り廊下を分ける扉の取っ手に手をかけたところで声がかかる。


「待って。恥をかかせてごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。私が悪かったわ。戻ってきて」


彼女は僕の顔を見ずに俯いたままそう言った。僕もそのまま出ていくこともできたが、それをすれば彼女とは二度と会うことができなくなる。そのまま踵を返して、リビングのソファーに腰かけた。


「こちらこそ、驚かせてしまってごめんなさい。僕は…………女なんです」


「ええ。でも本当にびっくりしてて、まだ少し、時間をちょうだい」


彼女はしばらくソファーの上で、僕と顔を合わせずに俯いていた。しばらく僕もソファーの上で、じっと自分の太ももを見つめていた。何も言わずに過ごした時間は一時間だったか、二時間だったか。彼女はしばらくして顔を上げた。


「よし! 服着て!!」


彼女は突然立ち上がり、僕の腕を引っ張った。僕は何が何なのか分からず、唖然とした表情で彼女の後姿を見つめた。彼女は僕の心を読んだかのように話し始める。


「私ね。もちろん、彼氏として君を迎えたかった。おばさんがこんなこと言うの恥ずかしいけどね。だけど、同じくらい娘も欲しかったの。可愛い服、いっぱい着させてあげたいの」


「……」


彼女は一つの部屋の扉を開いて、僕の腕を引いて中へ入れた。中は簡素な部屋だ。木造のタンスにベッド、化粧棚すらもクリーム色の木造りのものだった。全て同じ材料で作られているかのようなそれは、少しの汚れもなく新品のようにきれいだった。彼女はタンスの2段目の引き出しから服を引っ張り出した。僕には目がくらむような鮮やかな色の服はフリルのついたワンピースや、ノースリーブのシャツにライダースジャケットみたいなものがあった。


「これは? あんまりパステルカラーのものとか好きそうじゃないからこういうシックなものとか」


「そう……ですね。あんまりフリフリとかは慣れていなくて、僕自身もあまり女性という感覚がなくて」


「そうなの? うーん。好きな服とかはある? もしかしたらうちにあるかも」


僕は顎に手を当てた。好きな服と言われても、この白いTシャツにジーンズがいつもで、冬になると黒いダウンを羽織って、身を温めるくらいだ。動きやすさや、環境に適応するため服を着替えることはあっても、ファッションとして服を着るなんて行為は自分には無縁だと思っていた。だから好きな服と言われてもあまり意識していない。強いて言うなら――


「動きやすい服とかですかね。あんまり動きにくいと仕事がやりにくいので」


「ああ! そうなんだ。ところでなんのバイトしてるの?」


しまった。なんて誤魔化そうか。なんと言えばいいのかと口を噤んでしまう。大学生と彼女に言ってしまっていた都合上、大学生がよく働いているものを言わないと怪しまれてしまう。なんて言うことが一番自然なんだろうか。僕の頭の中で一番、大学生っぽい人たちが多い場所を言うことにした。


「こ、コンビニですね。レジとか動くこと多いので」


「ん? コンビニかぁ。でもそんなにシフト入れてるの? なんか仕事一筋って感じじゃない気がするけど。コンビニバイト」


確かに。失敗してしまったか。バイトばかりの生活をしているように映ってしまっているのかと、今更ながらに俯瞰して見えた。コンビニバイト漬けの大学生。さらに、そのために服装も動きやすいものがいいというのは些か、不自然に映ってしまっただろうか。ここはなんと切り返せばいいものか。考えて、僕の頭の中に一つの答えが浮かんだ。これならばあまり不自然でもない結論になりそうだ。


「忙しいのに、人が足りてなくて……だからいつも多めに入ってるんです」


苦笑してみせる。彼女の中で怪しまれているであろうところを、バイト先の特色で何とか誤魔化せないものだろうか。人の出入りが激しく、人手不足であればそういうこともあるのではないか。『彼』に社会性について教わっておいて正解だった。こういうところで役に立つことがあると、想定して教えられたことではないと思うが……


「なるほどね。でも大学に行くとき、普通の服でもいいんでしょ? ならこれとか」


彼女は両手で服の端を摘まんで広げて見せた。彼女のいう「ぱすてるからー」という色合いの桃色ワンピースだ。こんなものを着て、どこに出歩けるものかと僕は思う。しかし、彼女はいたって真剣だった。彼女を含めて多くの女性はそれが当たり前なのだろうか。僕はその横にある黒いジャケットを指さした。


「これ、着てみてもいいですか?」


「え? ああ全然いいけど。じゃあね――」


彼女はにこにこと嬉しそうにタンスの中へ視線を向けて、なにかごそごそと漁ってハイネックの深緑色のインナーを手渡してきた。僕はそれらに袖を通して、姿見の前に立った。


下にはデニムを履いて、すごくオシャレな人が外で来ている服だ。この辺りが、もっと膨らみあるスタイルのいい人だったと記憶している。僕は自分の平たい胸に触れて唇を噛んだ。もうちょっとスタイルが良ければ綺麗に映ったかもしれないが、これではみすぼらしく見えてしまう。彼女をがっかりさせてしまったのではないかと、恐る恐る振り返る。


「か、かっこいい!! すっごく似合ってる! なんか、女の子だって聞いてから見たら可愛さもあったけど、こういう服だとかっこよく映るんだぁ。やっぱり彼女にしてもらおうかなぁ」


彼女は甘えたように僕の腕に抱きついて、腕に頬ずりする。僕は何だか恥ずかしくて、彼女から視線を逸らして頬を掻く。


「ぼ、僕はいいんですけど……美知子さんがいいなら」


「じゃあ、彼氏で娘にさせてもらおーっと」


彼女は嬉しそうで、着ている服を僕にくれた。「きっと似合うから」と言って紙袋に山ほど服を詰めて渡してくれた。僕は彼女からそんないろんなものは受け取れないといって断ったが、彼女は意外と頑固で引いてくれなかった。


 僕は帰路について屋敷の門をくぐると、急いで自分の部屋へ歩いて行った。屋敷は仕事の時以外、入ることはない。屋敷の面積がかなり広いため、その庭の端に小屋を設けさせていただいて住んでいた。だから誰にも見つからないように急いで中へ入り、いつもの服に着替えた。


「いいか」


「は、はい」


慌ててTシャツに袖を通しながら返事をする。小屋の扉へ急いで向かい、扉を開けた。


「はい」


扉を開けると、『彼』がいつもの黒いスーツにサングラス姿で立っていた。僕は何となく『彼』と小屋の中を繋ぐ視線の間に割って入り、少し背伸びをした。


「仕事だ。詳細については後ほど話す。後で屋敷の正面玄関集合だ」


「承知しました」


僕は『彼』に頭を下げて扉を閉めようとした。その左腕に付けていた銀時計は外し忘れていた。しまったと僕が思った瞬間を『彼』は見逃さなかった。『彼』は閉まる扉の縁を掴んで引き止めた。僕のドアノブを掴む腕を持ち上げて自分の顔までもっていった。


「時計……着けるようになったのか」


「あ」


手遅れだった。僕の手首に付けた手首をじっと見つめて、じろりと僕へ視線を移す。『彼』は特段僕へ興味がないのになんでこんな時にだけ気が付いたのかと思ったが、『彼』が続けて口にした言葉で、その理由を理解する。


「殺した人間の返り血が底に残ったり、それだけ目立つものは暗闇でよく映えたりする。殺しの邪魔になるものは控えろ」


「分かりました。時間の把握も重要なファクターだと考えていましたが、別のものに付け替えます」


『彼』は僕の反論を聞いてため息をついた。『彼』の言うことは絶対だが、弁明の可能性があれば、僕だって黙っていない。ただ今回の件に関してはただの後付けだが、後付けにしては随分仰々しい言い訳が思いついたものだと自分に感心する。


「はぁ。そのくらいの気概があるなら結構なことだが、失敗するなよ。今回は警察内部の人間を殺す。失敗すればお前を容赦なく切るからな」


「十分に」


扉を閉めた。いやな予感がした。こういう時はいつもなら屋敷で何人か殺してから本番へ移るようにしていたが、今は彼女に会いたい。ついさっき別れたばかりなのにもう会いたいなんて、自分でも感情がコントロール出来なくなっていた。僕は部屋の中で一人、外した腕時計を抱えて小さく丸くなった。

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