第14話

 正面玄関の重い扉を押し開く。中へ入ってから扉を固定して彼女が入ってくるのを少し待った。扉を押さえている間にぷるぷると震える腕に辟易とする。扉を開くとものすごい勢いで吹く風が一挙に押し寄せた。正面で扉を抑えていた僕は目を閉じる。ぱちぱちと音を立てる蛍光灯が淡い光をさらに淡く、薄い光を正面玄関へ広げる。


「ありがと」


「ああ。いえ」


彼女は正面に見えるエレベーターを抜けて外階段へ歩き始めた。


「ん? エレベーターこっちですよ?」


僕がそう言ってエレベーターを指さすと、彼女は振り返り僕の顔を見ると苦笑した。


「いや、ダイエット。ちょっとだけね。先に上がってて」


彼女は僕にはエレベーターに乗ってくれと言った。そんな気にするほどじゃないと言いたかったが、貧相な体の僕が言えたことじゃなかった。僕は自分の平たい胸に触れて、二の腕を触った。筋力も少なく、たるんとしているわけでもない。まるで石にでも触れているかのような無機質な肌触りだ。自分でも貧相すぎて嘆息が零れる。


「はぁ。はぁ。うーん。三キロくらい?」


彼女が片膝に手を置きながら肩を上下に震わせていた。僕は階段の脇で転倒防止用の柵に背中を預けて立っていた。彼女が三階の階段の一番上を踏んだあたりで彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫ですか? あまり無理しない方が……」


彼女の頬を伝う大量の汗を見てポケットに右手を入れる。白いハンカチを取り出して、彼女の汗を堰き止めるように頬に当てた。彼女はきょとんとした顔で僕を見上げる。愛らしい彼女の顔に自然と笑みがこぼれてしまった。


「汗、これで拭いてください」


彼女は恥ずかしそうに顔を伏せて僕の手からハンカチを受け取った。僕は彼女に背を向けて「どっちがおうちですか?」と尋ねた。僕は彼女の家には行ったことがなく、三階まで来てどこへ行けばいいのか分からず階段の辺りで待っていた。


「左行って、三つ目のところ。家の扉にゾウのシールが貼ってあるから」


彼女はまだ、階段のところで汗を拭いていた。僕は一つずつ部屋の扉を数えながら少なくて助かるなと感じていた。僕がいつもいる屋敷はここの何倍も大きい建物で、少し歩いただけで部屋の扉がどこのなんなのか分からなくなってしまう。だけどここは数を少し数えただけですぐに行けるのだから楽でいい。三つ目のところには確かに青色のゾウのシールが貼られていた。ゾウのシールは随分と汚れていて、外の雨風に晒され真っ黒だ。


「これ、貼り換えた方がいいんじゃないですか?」


彼女が後ろから追いついて来て、僕の後ろで立ち止まった。僕が振り返りながら言うと、彼女はハンドバッグを漁っていた。


「ん? ああ。それ別に印か何かで貼ってんじゃないのよ。息子がね、勝手に貼ったの。困った子でしょ?」


彼女は苦笑しながら扉にカギをさした。でも、彼女の顔は全然困っているような感じではなかった。本当に困っているなら剝がそうかとも思ったが、僕にはどこか嬉しそうな声音に感じた。


「入って」


彼女は扉を開いたまま、僕に中へ入るように言った。僕は人の家というものに入ったことがなく、なんとなく恐る恐る中へ歩いた。中は一本の廊下が伸びており、部屋には仕切りはなく暖簾がかかっていた。右手には背の高い棚が置かれていて、戸が少し半開きだ。中には靴が見えた。彼女がよく履いていたヒールもその中に収められていた。


「あ、靴って……」


僕はそのまま廊下へ入ろうとして踏みとどまった。そういえば、家に入るとき靴は脱がないといけないのだった。九年間、靴を部屋の中で脱ぐ生活をしていなかったため、すっかり忘れていた。習慣とは恐ろしいものだ。僕はひやりとして流した汗を手で拭い、靴を脱いだ。


 僕が靴を脱いで廊下へ足を上げた瞬間、玄関のドアが勢いよく閉まる。心臓が跳ねて、その振動で肩までびくんと浮き上がりそうだった。僕が後ろを振り返ろうとしたところで、彼女が僕の身体に抱き着いて動けなくなってしまう。


「あ、あの……」


「少しこうさせてくれない? 疲れちゃって」


僕は彼女にいろいろと貰うことはあっても、与えることは一度もなかった。だからそれが嬉しくて、彼女の背中に腕を回して抱き寄せた。彼女の柔肌が直に感じる。艶っぽい髪に少し触れて、頭を優しく撫でた。彼女は暖かかった。彼女は柔らかかった。電気も付いていない廊下でしばらくそうしているだけなのに、時間はあっという間に過ぎてしまった。


「ごめんなさい」


彼女はリビングのソファーで僕の横に座っていた。僕の腕に頭を預けてボヤくように話した。僕は自分の腕が無機質のように冷たく硬いのをしているため、彼女に痛くないか聞いて離れてもらおうと思ったが、彼女は「いいの」と言って離れてはくれなかった。僕の心臓はさっきからやけにうるさい。こんなこと、殺しの最中でもなかった。初めての現象に病気かとも思ったが、彼女が少し動いて僕の腕から離れると心臓の脈動が少し緩やかになるのを感じたため、病気ではなく彼女のせいなのだと分かった。こんな激しい鼓動を聞かれたくないと思いながらも彼女には近くに居てほしいなんて矛盾を僕自身が感じて眉を顰める。


「いや、いいんですけど。僕、なんだか緊張しちゃってて」


ぴんと背筋を伸ばしてソファーに座っているせいか、いつもより座っているだけで少し疲れてしまう。彼女はだらんとさせていた手を口元まで運んで「ふふふ」と笑っていた。彼女が少し動いただけでもどぎまぎとしてしまう。


「あの、、、あまり動かれると――」


僕が太ももの辺りに置いた手を中心に寄せて隠すようにするが、それに気が付いた彼女の手がそれを阻んで、彼女の手がむしろ中心へと寄っていく。僕はまずいと思い、その手から逃げようと身体をくねらせるが、彼女はそれを許してくれない。彼女は僕のそこに触れてピタリと手を止めた。僕は急激に熱が身体を突き抜けて、熱の通り抜けた先から体温が上がり、頭がぼーっとする。何も口にできる気がしなかったが、彼女が先に口を開いた。


「あなた…………女の子なの?」


僕は頭の中でぐるぐるとめぐる思考が、纏まることなく回り続けた。

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