第13話
薄暗い集合住宅の玄関前で立っていた。今日は前日が雨だったせいで肌寒い。ひんやりとした風が身体を抜けるだけで体温も一緒にさらっていく。
顔を隠すために黒いフードを被っているが、逆に周囲の目線が感じられて落ち着いていられない。蛍光灯の明かりが付いたり消えたりと同じのように落ち着きがない。こういう場所の管理は杜撰であることが多い。今日はここで……
「お待たせ」
玄関から出てきた女性は、顔に薄っすらと脂汗をかきながら僕の方へ駆け寄ってくる。白いワンピースに黒のハンドバッグ、ピンク色の口紅は艶々として輝いていた。唇に視線を向ければ、妙に色っぽさが際立っていた。僕はぶんぶんと首を振って、彼女に視線を合わせた。
「こちらこそ待たせてしまって申し訳ないです」
「いいのよ。講義遅れてたんでしょ?」
僕は頷いた。本当は『彼』からどこへ行くのかを聞かれてどう話せばいいのか分からず、手間取っていたとはとても言えない。彼女とは初めて「でーと?」というものをするらしい。僕にはあまり理解できなかったが、映画を見に行くと言っていた。映画は何を見ると言っていただろうか。恋愛ものだか、ミステリーだったか思い出せない。
しかし、ミステリーだけは嫌だなと思う。グロいのは苦手だ。あまり得意じゃない。血は出るし、苦痛に歪んだ表情がアップになるのも凄惨さを際立たせて辟易としてしまう。本当の殺人なんてものは、殺した人間の顔なんて見ないし血だって身体に付着しないように気にするものだから……なんだろう。白い服を着てきた時のミートソースが飛ばないように気にするみたいなものだ。だからあんなにグロテスクにはならないんだよなと思ってしまう。
「映画……何見るんでしたっけ」
「『濃い恋』っていう映画。なんか、濃厚な恋愛が基本だけど少しだけミステリーもある
って」
僕は少しホッとする。恋愛映画ならそんなグロテスクなことにはならないだろうと思うし、恋愛というものを学ぶ勉強だと思えば心が弾む。彼女にどう接していけばいいのか学んでいけばいいのか変わっていけばゆくゆくは……
僕は彼女に恋をしてしまった。なんでだろう。彼女から受け取った腕時計はしていない。あんな大切なものを外へつけていくのが怖かった。だから仕事の時も、こうやって外へ出ているときも、どちらも変わらずに付けなかった。だけど、そのことが彼女には不満らしい。
「時計……気に入らなかった?」
「そうじゃないんですけど……大切なものなので」
彼女は目を丸くした。隣に歩いていたはずの彼女はどんどんと離れていく。振り向いて彼女の方を見ると、ぼーっと僕の方を見て固まってしまっていた。彼女は数秒沈黙してから、我に返ったように僕のところまで小走りで寄って来た。
「ごめんごめん。とっても嬉しいけど、時計ってほら時間を見るものだから。なんていうか、そう言ってくれるなら着けててほしいなぁ」
彼女はどこを見ているでもなくまっすぐ見据えてから、僕に微笑んだ。僕はなんて返したらいいか分からず、大事に持っていた時計をカバンのケースから取り出した。
「え! ケースに入れてくれてたんだ。びっくり。でもそれ、結構ボロボロでしょ、ごめんね」
彼女は申し訳なさそうに僕に言った。僕はそんなこと一度も思わなかった。時計は確かに盤上の表面は細かい傷が入っていたが、ブレスレットの部分は手入れされていて綺麗な輝きを見せていた。
「そんなことないです。美知子さん、旦那さんが大好きだったんですね。ブレスレットのところ、綺麗なので」
彼女はびっくりしたような顔をして僕と、手元に出した銀の腕時計を交互に見た。時計は未だにキラキラと輝いている。盤上のガラスも取り替えられたらずっと綺麗なままでいられるのに残念ながら僕にその技術はなかった。だからこれくらいしかできない。
「渡してから半年は経つのにまだ綺麗。一度も付けてないでしょー」
彼女はいたずらっぽく笑った。彼女は僕の手にあったケースから銀時計を取ると、僕の左手に巻いてくれた。初めてつける時計に少し緊張してしまう。時計を左手首に付けるとずっしり重い。ナイフを手に持って振るうとき、これだけ重さがあると軌道がずれる。そう考えたら外さないといけないのだが、今はいいか。僕はその重さが心地よくて少し口元が緩んだ。
「あ、そうそう。最近ね。ご近所さんが行方不明になったのよね」
彼女が突然そう話を切り出した。行方不明。彼女がそう口にしたのは家から消えていたからだろう。だが詳しくは知らないのか、「怖いわよね」と根拠なく不安がっていた。彼女の集合住宅の二個先にあるアパートの「林」という男が突然姿を消した。
あれは僕が殺害した男なのだが、林という名前なのか。僕は初めて殺した人間の名前を聞いた気がする。しかしそんなことはどうでもいい。彼女はとても不安そうにしていた。
「そうですね。でも美知子さんは大丈夫ですよ」
「え? どうして?」
彼女は不思議そうにそう言った。僕はしまったと思う。僕からすれば、彼女をターゲットにするはずもないのでそういったのだが、彼女からしてみればそんなことは知らない。急に根拠のない大丈夫を投げられても不審がるに決まっている。僕は慌てて何か続けて言うことを考えるが思いつかない。
「ああ。それは――――」
「そうねぇ。守ってもらおうかしら」
彼女は両手首を掴んでぐぐっと伸びをしながら言った。僕は急速に血の気が引いた。守る。どうすればいいのだろうか。
――守るとはなんだ。
彼女の代わりの人間を殺し続けることか? 流石の僕でもそうではないと分かる。自身の理性を保つことが彼女を守ることなのだろうか。他人の命を多く奪っている張本人が? あまりに馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。そろそろ映画館のある施設についてしまう。僕の頭の中にある守るということが何であるかは纏まらないまま、目的地についてしまった。
「あと、二十分ある……」
彼女は身に着けている時計と、映画館の電光掲示板を交互に見て言った。彼女はどうしようかと顎に手を当てた。どっかで休むほどじゃないし、案内は十分前だしどうも微妙な時間に来てしまったと困り顔をしていた。僕は初めての映画館で、でかでかと広告みたいに食べ物が並んだものを指さした。
「あれ。なんですか?」
「え? なんか新商品あった?」
広告をじっと見つめて一個一個眺めて見るが、新商品の文字は見つからない。やってしまった。彼女には自分は大学生だと話しているのだ。普通の大学生は映画を頻繁に見るのだろうか。そうであれば、あれを知らないわけないじゃないか。僕は首を振って「見間違いでした」と答えた。
「何か食べる?」
そう聞かれて、僕はケースに入ったふわふわの綿菓子みたいなものを手渡された。僕は彼女がシングルマザーで息子を育てていることを知っていた。だから慌てて『彼』から受け取っていたお金を出して手渡した。
「いい、いい! 大丈夫よ。大学生なんて一番お金いるんだから」
彼女はぎょっとした顔で、僕が渡したお金を押し返して僕の手元へ戻した。なぜだろう。彼女が何故お金を受け取ってくれないのか分からない。一万円札を十枚。とりあえず、あるだけ渡そうと思ったのに受け取ってはくれなかった。足りなかったのかと訝しげな表情を浮かべたが、彼女は笑って「大丈夫よ」と言っていた。
映画はなんとも退屈な内容だった。主人公は女性で、元カレが狂人。巷で言うところのサイコパスってやつだ。彼女の周りに寄り付く男どもをひたすらに殺しまわって最後には彼女をも殺して愛を告げる。馬鹿らしい。殺す人間はいつも興味のない
「楽しかったね」
「そう……ですね。でもなんか虚しい終わりでしたね」
僕は彼女の顔を見ずに俯きながら言った。彼女は楽しんでいたのだろうか。あれは彼女にとってどういったものだったのか。すごく気になった。
「確かにねぇ。あの元カレって重いよね。でも私は、あんなに愛されたことないなぁ」
彼女の声のトーンは少し低かった。どこか悲しげな表情をしていた。彼女はすっと目を細めて、足元に転がる石ころを見つめていた。小さな石ころだ。風に吹かれてしまえばすぐに飛んで行ってしまいそうな。彼女はそれを転がすように蹴った。僕はなんて言えばいいのか分からないと心では思っていたのに、彼女のそんな姿を見て、考えるより先に口が動いていた。
「そんなことないです! 僕が……」
言葉に詰まってしまう。遅れて脳が追い付いたころには羞恥心が全身を駆け巡り、マグマのような熱さが全身を焦がす。慌てて彼女から顔を逸らして俯いた。顔は溶けてしまうよな熱さに覆われて、もわっとした空気感を味わう。口にしてしまえば早いのかもしれないが、彼女には僕なんかとは違う世界で生きていてほしいと思う。
好きだと伝えて、こちら側に引き込んでしまえばどれほど楽なのか。でも彼女に人はきっと殺せない。彼女は僕なんかと違い、他者を思いやることも、愛すこともできる。僕とは違う世界の人間だ。
「ありがとう。私も貴方のこと好きよ。こんなおばさんだけどね」
彼女は気まずそうに苦笑した。僕は目を見開いた。彼女から口にされたのは初めてだった。だけど僕は彼女を愛することができない。
その矛盾に気づいたとき、視界がぼやけた。熱い。目から零れるマグマが顔を焼いていく。僕はそれを止められなかった。なんでだろう。僕は彼女のその言葉が嬉しかったのに。応えたかったのに。ひとしきりそれが止まるまで何も言えなかった。
「落ち着いた?」
「はい……すみません。みっともないところを」
彼女は首を振った。僕は周囲を見回してから彼女の目を見た。ここは彼女と初めて会った場所だ。僕よりうんと高い木の下に、囲むよう積まれているレンガの上に二人で座っていた。まだ子供たちがブランコや、球体の形をした遊具で遊んでいる姿が見える。朝、着けていた腕時計に目を落とすと、長針が数字の五に重なっていた。
午後五時ちょうどだ。そろそろ彼女も家に帰らなければならない時間だろう。いつもの話では、この時間は習い事から帰ってくる息子へご飯を作っている時間だ。早く家へ送り届けなければならない。
「家。送っていきますよ」
「ん? ああ、もうこんな時間なのね」
彼女は自分の腕時計を眺めて呟いた。僕が立ち上がると彼女は顔を上げて僕を見る。強く吹く風が髪をさらい、彼女の顔を長い茶色の髪が覆った。彼女がその髪を押さえつけてもう一度僕に顔を見せたとき、薄い桃色の頬を紅潮させ下唇を少し噛んだ。彼女のその姿が妙に艶めかしくて見ている僕の頬も熱くなる。彼女は一息置いてから口を開いた。
「今日さ。耕太、友達の家に泊まるんだって。だから、、、来ない?」
どくんと心臓が跳ねた。彼女は僕の方をじっと見つめたままだ。目を逸らそうと頭で思っていても視線は彼女に釘づけだった。両手で顔を掴まれて固定されているみたいだ。僕は言葉が出てこず、ただ頷いた。僕が返事をすると彼女も跳ねるように立ち上がり、僕の横を抜けていく。公園の柵の前で立ち止まった彼女がこちらに振り返った。振り返った彼女の顔はここからじゃ遠くてよく見えない。
僕は彼女に言わなきゃいけないことがある。こんなこと言ったら彼女はどんな顔をするだろうか。ずっとこの関係が続けばいいのに。僕はぼんやりとそんなことを考えていた。彼女が手招きをしていた。僕は彼女の傍へ駆け寄っていく。吹く風は僕とは真逆に向かっていく。風が顔を覆うと渇きを覚えて強く目を瞑った。
「お前はもっと多くの
どこからか『彼』の声が聞こえてくる。いつしか感じていた理不尽がぶり返すように押し寄せる。いっそのこと彼女とどこか遠くへ逃げたくなった。でも、『彼』はそんなこと許さない。僕は『彼』の奴隷なのだから。
「いこっか」
対照的な柔らかな声が耳に響く。彼女はなんでそんなに、僕の心を揺さぶるのだろう。僕は服の首元辺りを強く掴んだ。きっと今なら彼女には聞こえないはずだ。弱い心に辟易とする。漏らしてしまわなければ耐えられない。
「駄目なんだ。ごめんね、美知子さん」
今日で一番強い風が吹いた。少し先で髪を押さえつける彼女のシルエットが見える。背後に大きな橙色の太陽が沈んでいく。僕の言葉は風が一緒に運んでくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます