第10話
僕は彼女と出会った時のことを思い出していた。
僕は彼女の話をじっと聞いていた。彼女は明け透けに笑いながら自分の息子について話していた。
彼女は息子が生まれてからすぐに夫が死んで、一人で息子を育ててきたと話した。息子は人の気なんて知らないで元気におっきく、少しだけ生意気に育ったのよと茶目っ気のある笑顔で片目を閉じた。
「貴女は、息子さんに自分の人生を奪われたんじゃありませんか?」
僕は何気なくその話を聞きながら自然とそんなことを口にしていた。
他意はなかった。
僕が彼女の立場ならそう感じただろうから聞いてみた。彼女は間隙、目を大きく見開いて口端を下げて悲しそうな顔をした。僕はじっと彼女を見つめて彼女が何故そんな顔をするのか首を傾げる。しかし、彼女はすぐに笑顔を取り戻して「そんなことない」と答えた。そのわりに彼女は「そんなことない」としきりに呟いていた。
「で? あの女にするのか?」
彼女の話を聞いた後の『彼』の声はひどく冷たく感じた。
僕はそれに首を振る。なんとなく彼女を巻き込んではいけないとそんな気がした。だから僕は目の前を通り過ぎる適当な人間を指さした。それが男だったか、女だったか、若かったのか老けていたか記憶にない。
「随分汚い部屋だな」
僕はなんの感慨もなく呟いていた。足裏が床に到達するよりもペットボトルやら、何のごみかも分からないものを踏んでいた。布団にくるまれているターゲットが、もぞもぞと動いている。僕の手元にあるサバイバルナイフは切れ味が鋭く、人間の皮膚など容易く引き裂き、肉を簡単に抉ることができる。
さらに腰元に隠していた黒い手袋とロープを取り出した。長いロープをサバイバルナイフで手ごろな長さに切る。黒い手袋を手にはめてから二度三度、手の感触を確かめる。布団の出入り口を触って頭のある方を確認した。口に何か嚙まされているのだろう、必死に声を出そうと呻き声をあげている。
「やかましいな」
僕はその人間の首にそっとロープを通して布団を股下になるように立った。
不安定な足場だと力が入りにくいため、近くに粗雑に置かれた辞書を取って足元に敷いた。ロープを首の後ろでクロスさせてから、ロープの端をしっかりと踏む。勢いよくもう片方のロープを引っ張った。布団は今まで以上に暴れて辺りに散乱していたゴミを荒らしまわる。打ち上げられた魚のようにひとしきり暴れた後、ぐったりとして動かなくなった。
これで二人目。あと八人だ。僕を見たという人間もいるはずがない。僕はゆっくりと部屋を出ていった。
――荒れた室内。血まみれの床。顔には大量の返り血で肌色が全く見えなかった。黒い影のような人間が立っている。棒立ちで立っているというのになんとも恐ろしい。
「お前を生かすことは今後の投資だ」
僕は『彼』の指示に従って順調に人を殺していった。慣れない殺害方法も多く、自分としては随分杜撰な犯行を繰り返してしまったと反省もしている。しかし、そうやっていくうちに外へ出ていくことだけは慣れた。そして、この人との会話も。
「また、痩せました?」
「そう? これでも最近太っちゃって」
彼女は自虐的なことを口にして苦笑する。その笑顔が日の光を浴びてあまりに眩しい。僕は右手で庇を作り、目を伏せた。彼女は机の下の自分の腹部を見つめて八の字に眉毛を作る。彼女としては痩せている自覚がないのだろう。彼女の顔を一瞥してから腕を掴んだ。平均的な筋肉量に脂肪が詰まっている。ほどよく筋力があって、工場勤務だという彼女の腕は逞しかった。
「ど、どうしたの?」
「とても、綺麗な手だと思いますよ。僕はね」
お世辞でも何でもない。僕は手を洗うとき血の匂いが鼻をつくし、どれだけ手を洗ってもぬめりとする感覚は永遠に消えない。充血した手が日の光によって橙色に変化しているのを見たとき、血が残っていたのかと、振り払うような動きを不審がられたこともあった。この手は汚れている。だから彼女の白い肌は余計、綺麗に見えたのかもしれない。
「そ、そんなことないわよ~。でも、ありがとう」
彼女は底抜けに笑っていた。僕は彼女の言葉に何と返せばいいか分からず、こくりと頷いた。彼女は口を付けたカップを皿に乗せて「そういえば、服持っている?」と僕に聞いてきた。
僕は彼女に一人暮らしの大学生だと話していた。大学……学校に行ったことすらなかったが、彼女にはどうにか誤魔化せていた。自分に身長があることも幸いしてか、彼女は僕の言葉を疑わなかった。僕は『彼』の下についている関係上、服を与えられることはない。だから彼女と会うとき、毎回同じ服を身に着けていた。そのせいでそんなことを聞いてきているのだろう。僕は首を振った。
「それなら、服買いに行かない? あまりお金ないなら私がもつよ?」
貰うことも、与えられることも許されない。僕にそんなことをしてしまえば彼女が『彼』に目を付けられてしまう。それは僕の本意ではない。僕はもう一度、彼女に首を振った。
「そう? ならいいのだけれど……あ! じゃあこれ貰ってよ」
彼女は茶色いハンドバッグから銀色のものを取り出した。きらりと光るそれは男物の腕時計だった。腕時計はずっしりと重みがあって、かなり年季の入ったものだと表面の傷で分かった。円盤のガラス面には無数の傷が残っているが、ブレスレットの部分は宝石のように輝いていた。大事にしまわれていたであろうそれを、僕はなんとなしに受け取った。
「これは……」
「旦那のものなんだけどね。よかったら貰って?」
僕はそれをもらってしまった。腕時計など、つけることはない。だけどポケットにそれをしまって『彼』の元へ戻ってしまった。
ずっしりと重みのある腕時計は僕が歩くたび左右に揺れる。その重みを感じながら、帰りの途中に顔がつってしまった。帰っている間ずっと、顔がつっていた。すれ違いざまに何度も不審がられていたが治らなかった。こんなことは初めてで、どうすれば治るのか分からなかった。
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