書く内容に向き不向きはあるので
※今回はネタバレありの読書感想文だな。
サブタイトル『「火の鳥 黎明編」(手塚治虫)を読んで』
先日書店に行って「火の鳥 黎明編」を衝動買いしてしまった。
ちょっと前から手元に置いておきたいなぁと思っていたので入手できて嬉しい。
火の鳥をはじめて読んだのはたぶん中学生の時だったように思う。
初めて読んだときは衝撃だった。
だって主人公(と思われるキャラ)が結構あっさり死んでしまうから。
主人公は死なないという先入観があったので、ナギや猿田彦のあっさりとした幕引きには驚きしかなかった。
ナギなんか失意の中死んでその後は1コマも登場しないしね。
物語はナギの立場に立ってみれば悲劇である。
でも、ナギが死んでも物語は終わらない。
人の死は特別ではない。
誰が死んでも時間は止まることなく動き続ける。
そんな作品。
主人公の視点で描かれるのではなくて、俯瞰的な視点から世界を物語を作りあげている。
こういう書き方があるのか! と、中学生の私はとにかく衝撃だった。
あれから年を重ねた今「火の鳥黎明編」を読み返してみると、やっぱりナギや猿田彦の最期は衝撃的。
二人とも死んだあとは物語に一度も登場しない。
でも猿田彦には子どもができている、ナギもお姉ちゃんのヒナクが産んだ子がその後の世界を生きている。
生きるということは次の代に命を繋げていくことだ。そこに個人の感情はない。
生命っていうのはそういうことなんだろうな。
次の代を産み育んでいくのは人も虫も植物も皆同じ。
生きているから かなしいんだ。
以上、真面目な感想終わり。
こういう神の視点からの小説を書けるようになりたいなぁと思っているけど、話の筋すら思いつかない。どうやったらそういう発想ができるようになるんだろう?
ふと自分の書いているものを読み返してみると、狭い世界で少人数でじめじめした感情のやりとりをしている話が多いように思う。
こういう話ならいくらでも思いつくしいくらでも書けるように思う。
つまり、向き不向きってことではないだろうか。
でも壮大な話を書ける人は狭い世界も書ける気がするんだよなあ。
実際どうなんだろう。
いつかは広い世界、挑戦してみたい。現時点じゃ書き方すらわからんけど。
さて、話は戻して黎明編の話。
ナギの最期は、悲願叶わず散っていくせいで胸が苦しいけれど、あの子一応火の鳥から警告もらってんだよね。
「わからなきゃ死ななきゃならないよ」(意訳)って。
で、わかろうとせずに永遠の命を追い続けて火の鳥の言うとおりになった、と。
兄ちゃんは火の鳥を捕まえに行って死に、村は滅ぼされてたくさんの死を見てきたナギが長く生きることを幸せだと考えてしまうのも必然なのだろう。
死にたくないから死に向かって進むしかないわけで、生きるということは残酷でもあるのだなぁと感じる。
でも、ナギにとっての『生きている喜び』は猿田彦との疑似親子としての暮らしじゃないかなって思うけど、そんな暮らしもすぐにニニギによって摘み取られちゃうからな……。彼らの行く末は戦死しかなかったのかな。
何処かで誰かが言っていたが、『諸悪の根源は火の鳥』。これに尽きる。
やっぱ手塚御大は偉大だなと思うわけです。
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