第23話 山中

      ◆


 小屋は静かだった。

 どうやら本当に山の中にあるようだ。そばにある人の気配は、ミズキかアオイくらいのもので、他には誰もいないらしい。

 ミズキとアオイは交代で僕のそばに詰めていた。小屋は立派なものではないし、壁には隙間もあるので外の日差しが入ることでおおよその時間帯はわかる。ミズキとアオイは昼と夜で交代しているわけではないようだ。ミズキがいる昼過ぎに眠り、夜中に起きてもまたミズキがいるということが何度かあった。

 僕はさりげなく、ミズキの祖父、アオイの父である老人がどうなったか確認した。強かに蹴り飛ばされていて、無事だったとは思えなかった。

 僕に質問されたミズキは、大丈夫ですよ、としかしどこか悲しげに答えた。

「腰が痛むとは言いますが、元からだと笑っています。今は、少しは運動をした方がいいと言って刀を研いでいます」

 僕はすぐには答えられなかった。言葉の意味するところをすぐには理解できなかったからだ。体力が落ちていることもあるし、気力もまだすっきりしていなかった。

 ゆっくりとわかってきたのは、どうやらあの老人はただの食堂の老爺ではないらしい、ということだ。少なくとも刀を研ぐ技を身につけている。

 それと、記憶がかなり曖昧だが、かろうじて僕がリリギを退けることができた理由は、間違いなく投げ渡された刀だ。

 あの刀はかなり質の良い刀だったのではないか、と思い出される。しかしボロボロだったし、手入れも不完全だった。

 老人に刀を研ぐ技術があり、古い刀を手元に残していた。

 あの老人は元々、刀を帯びるような人物だったのではないか。研ぎ師なのかどうかははっきりしないものの、刀を手元に置く理由は限られる。

 休んでいるうちに僕の体力も気力も回復してきたが、引き換えにミズキとアオイは疲労の色が濃くなっていた。特にミズキは青い顔をしている。

「お医者様に診ていただければいいのですけど、難しくて」

 背中を支えて僕の上体を起こし、粥のようなものの入った器を手渡しながらミズキが言う。

「それに、そろそろ別の小屋に移動しないといけません。動けますか」

 もちろん、と頷き返して、自分の手で匙を使って粥を口へ運んだ。美味いといえば美味いが、味がないといえば味がない。贅沢は言えない。

 その日のうちに、アオイがやってきて、僕はミズキに支えられながら初めて小屋を出た。

 出てみると、木立の真ん中にポツンと小屋があるようなもので、何か、別世界に飛ばされてしまったのではないかと思った。

 足元は整っているとは言えない。道らしい道はないのだ。降り積もって腐った落ち葉や、隠れている木の根に足を取られたりしながら、しばらく進んだ。

 進むうちに、一応、この山には人の手が入ってはいるのだとわかってきた。時々、足場をよく見ると人の通った痕跡に出くわすし、一部には草や枝が払われている部分もある。

 材木を売るということは、きっと想像よりも手間がかかるのだろう。そこらに生えている木を無計画に切り倒して売ればいいわけではなさそうだ。木を育てることはもちろん、山を守ることも仕事の内なのかもしれなかった。

 次の小屋はやや離れていたが、様子は先の小屋よりは立派に見えた。ただ、中に入ってみれば光景に変化はない。アオイが背負って運んでくれた荷物が広げられ、薄い布団の上に僕は横になった。

「アイリ先生、具合はどうですか」

「大丈夫。すぐに動けるようになる」

 ミズキとそんなやり取りをしている間にも、アオイは薬を用意し、見るからに不味そうなドロドロの液体を注いだ器を差し出してくる。ぐっと煽るが、やはり不味かった。

「明日にはまた参りますので」

 丁寧な口調でアオイが言って小屋を出て行った。

 アオイの心中は推し量るしかないが、娘を取り戻したということで僕に恩を感じているのかもしれない。しかし僕のせいで食堂がめちゃくちゃになったのも事実だし、もしかしたらもうアオイたちはクズリバの街で生活できないかもしれないのも事実だ。

 小屋にアオイと二人きりになり、僕は布団に横になって少し考えた。

 ミズキはもう粥を用意し始めていた。その横顔を見て、僕はこれまで口にしなかったことを伝えると決めた。

「ミズキさん」

 彼女がこちらに振り向き、笑みを見せる。どこか力ない笑みだ。

「どうかしましたか?」

「ナクド殿ことは、聞いていますか」

 少しの間だけ、ミズキの顔が強張った。それがぎこちない笑みになり、はい、と頷いた。

「誰が切ったかは、聞いていますか」

 ミズキは泣きそうな顔に変わったが、涙は見せずに、しかし言葉はなくただ頷いた。

「ナクド殿を切った僕に、どうして親切にしてくれるのですか?」

 返事はやはりなかった。ミズキは粥を煮ている小さな鍋に向き直り、しばらくは無言で鍋の中をかき混ぜていた。

「僕を、見捨てることもできたはずです」

 そうですね、とミズキは湿った声で応じた。

「あなたを放っておくこともできた」鼻をすすり、しかしミズキはこちらを見ずに言葉を続ける。「それは確かです。でも、あなたは私を助けてくれた。そのことを、無視はできません」

「僕がここへ来たのが間違いだったと思います」

「それは予見できないことですから、考えても仕方ありません」

 ミズキは着物の袖で顔をぬぐった。小さな炉からの熱で浮いた汗をぬぐったのか、涙をぬぐったのか。

 僕は視線をミズキに向けていたが、彼女は視線を合わせなかった。

 僕を本当の意味では許せないのだろう。

 当たり前か。自分の師を殺され、生活を破壊したのは僕なのだ。

「僕は体が動くようになれば、ここを離れます。それまで、面倒をおかけしてもいいですか」

 そう言うと、ミズキが首を振ったので、僕は困惑した。

 拒否するように、首を左右に振る意味がわからなかった。

「父が、お話しすると思います。それをまず、聞いてください」

 ミズキの声にある感情は読み取れなかった。

 ただ、彼女が苦しんでいるのはわかった。

 僕はどういう立場なのか、思案してもわからなかった。

 このまま僕を放り出すことができない理由など、あるだろうか。



(続く)

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