第12話 剣士の性分

      ◆


 ナクドの道場へ顔を出すと、ナクドは板の間で一人きりで正座していた。

 何をしていたか不明だけれど、僕の気配に気づくと振り返り、何かに驚いた顔に変わった。

「アイリ殿、クズリバ様は……」

 彼は言葉の続きを口にせず、勢い良く立ち上がると駆け寄ってきた。それには僕の方が驚いてしまったが、ナクドは僕の胸のあたりに手をやった。なんだ?

「着物が切れてるが、怪我はしていないのですか」

 着物が切れている?

 自分の手で着物を探り、見下ろすと、確かに着物の一部が切り裂かれている。

 サザレと対峙した時の、最初の交錯の時に切っ先が掠めたのだろう。何の痛みもなかったし、今、実際に手で触れてみても血で濡れていることはない。

「気づきませんでした。すみません、借り物の着物を」

「着物などどうでもいいのです」そう言ってから、ナクドは少し口をつぐんだ。「どなたに切られたのですか?」

「ナクド殿がご存知かは知りませんが、サザレという名前の男性です。クズリバ様の館にいて、かなりの使い手でした」

「では、アイリ殿がサザレ殿を切った?」

「まさか。痛み分けのようなものです。しかし、僕の着物が切れていて、サザレ殿の着物には僕の刀は掠りもしなかった。つまり、僕の負けでしょうね」

 そうですか、とナクドが少し微笑んだ。ぎこちないが、微笑みにはなっている。

 着替えてから、着物のことを話すとナクドは「クタに繕って貰えばいいでしょう」などと言っていた。着物の色からしても繕っても目立たないだろうけど、ナクドは着物など気にもしないようだ。

 それよりも、ナクドは「どこかで一献、いかがですか」と言い出した。珍しいことだ。今まで彼と酒を酌み交わしたことはない。まだ時刻は早く、太陽は傾いてもいないのに酒を飲むのもナクドらしくない気がした。

「クズリバ様がなんとおっしゃったか、ぜひお聞きしたい」

 そんなことを言っていたが、ナクドの紹介で僕とクズリバ氏の面会が成った以上、ナクドにも知る権利はあるかもしれない。僕としては義理のようなもので、誘いを断るのは難しかった。

 二人で道場のそばの店に行った。なんと呼ぶべきかはわからない店で、入ってみるとすぐに座敷があり、品があるといえばある。ただ、高級さはあまり感じなかった。

 店のものらしい女給が僕たちに注文を聞きに来たが、「鍋と酒を」とナクドが簡潔に注文した。鍋が何の鍋かは不明だけれど、猪か鹿だろう。

「ここは熊の鍋を出す店ですよ」

 微笑みながらナクドが言った言葉に、僕は一瞬、返す言葉を見失っていた。

「熊ですか?」

「そうです。熊です。珍しい肉ですが、味は独特でいいものですよ」

 はあ、などと曖昧な言葉しか言えなかった。

 先に酒が出てきて、それぞれに酌をして、軽く舐めるように飲んだ。辛口の酒だ。濁りが少しもない澄んだ酒だった。

 ナクドはクズリバ氏の館で何があったのか、質問してきた。だけど僕に言えることは少ない。

 もっとも、ナクドは館の様子などより、サザレの剣術について興味があるようだと話しているうちに気づいた。だから僕はサザレとの間でどういう刃のやりとりがあったか、思い出せる範囲で説明した。隠すべきことはほとんどなかった。

 僕の言葉を真剣な様子で聞いたナクドは、僕が口を閉じると、何かに思いを巡らせているようで斜め上を見てしばらく黙った。

「サザレ殿は、名のある剣豪です」

「剣豪」

「ええ、数年前にこの地に来て、腕を認められてクズリバ様に仕えています。指南役などと呼ばれることもありますが、門人がいるわけではないと聞いています」

「誰にも指導しない指南役ですか?」

「クズリバ様のご嫡男のための指南役のようです。まだ二歳、三歳ほどの幼さだったはず」

 わからなくはない話だが、それではサザレは今、何もすることがないことになってしまう。サザレを召し抱えていることでクズリバ氏に箔がつくか、と考えてみたが、つきそうにはない。

 何か別の目的があって、僕には見えないだけだろうか。

「サザレ殿は普段は何をされているのでしょうね」

 やや真っ直ぐすぎる気もしたが、そう言葉を向けてみるとナクドは困ったように苦笑いした。

「さあ。私はこの通り、道場の主人に過ぎませんから、クズリバ様の館で何が起こっているかなど、想像もつきません」

「クズリバ様が、サザレ殿を飼い殺しにするでしょうか。サザレ殿も、そのような形で満足するでしょうか」

「それは私たちのようなものが判断することではありませんね」

 たしなめるように、ナクドは言う。

「誰もが望んだままに生きることはできません。どこかで妥協して、何かを捨てても、生きるしかないのではないでしょうか。もっとも、クズリバ様にはサザレ殿を飼い殺しにしている自覚がなく、サザレ殿はサザレ殿で飼い殺しにされることを良しとしている、というようなこともあるかもしれませんが」

 そんなことがあるでしょうか、と危うく声になりそうだった。

 クズリバ氏のことはよく分からないが、サザレのことは同じ剣術の道に生きるものとして少しはわかる気もするのだ。

 あの男が、剣の腕を振るう場面がない生活に落ち着けるとは、とても思えない。

 しかし、ナクドが言う通りなら、サザレは刀を抜くことがないような生活をしていることになる。

 ひどい矛盾だ。何かが間違っているとしか思えない。僕の感覚が間違っているはずがないから、きっと知らないことがあるのだ。それはナクドを問い詰めても分かりそうになかった。

 女給が鍋を持ってきた。煮えたぎっている汁の中には肉と野菜が見える。汁は味噌で味が付けられているようで、味噌の濃密な匂いを伴っている。

「さ、熱いうちに食べましょう」

 ナクドが箸で小皿に鍋の中身をよそい始めた。すぐに僕に手渡される。湯気上がる肉はなるほど、美味そうだった。

 すまんが酒をもう少し頼む、とナクドが女給に声をかけた。

 僕は箸で肉をつまみ、よく観察してから口に運んだ。

「どうです?」

 嬉しそうなナクドに、僕は思わず唸るしかなかった。

「これが熊か、という感じですね」

 ナクドは大笑いすると、自分でも食べ始めた。女給が酒の入った徳利を手に戻ってくる。

 僕は今だけは鍋に集中することにした。

 食べれば食べるほど、なかなか美味いじゃないかと思えてきた。



(続く)

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