死者の邂逅

鶯雛ちる

白椿 其の一

 まだ陽が出ないのに、眞奈子は朝を思った。隣家の物音もしないうちに炊事の用意を済まてしまってから、思い出したように割烹着の上から厚手の半纏を羽織った。勝手口から庭に出ると、水気の多い空気が頬を仄紅く染めさせた。

 植え込みの白椿が碧い蕾から目を覚ましていた。

「今年はまだ雪も積もらんうちから、咲いてくれはったわ。」

 眞奈子は息を白くさせながら呟いた。椿はふくよかな丸みのある花弁の重なりに青い翳りを溜めながら、茶筅のような柱状に開いた蕊を包んでいた。穢れの知らない純潔と重ねられて、薄明るい朝の庭に冬を実感させられた。眞奈子は肌着に身じろぎした。

 床の間の切り花にも出来るからと、眞奈子が植えた株は、雪の頃に花が出来る。茶花としても名高い「加茂本阿弥」と言った品種で、大振りの雪片のような花が咲く。開花の合図とでも言うように、株の中でも一際粒の大きく容良い蕾に碧い雄蕊が顔を出すのを、昨日の暮れ方に眞奈子はぼんやり見ていたから、もう二、三日もすれば咲くだろうと踏んでいたけれど、今朝は一段と冷え込むからか、随分早くに花開いた。一輪だけがせっかちらしく、残りの蕾はまだ碧く窄めていた。

 右手の人差し指と中指を咲いた白の萼のほうに当てがって撫でるように支え上げると、朝露が指の腹に透き通るようだった。

「それにしても、早起きやんな。」と、眞奈子はまた独り言を言った。

 眞奈子は普段からそう言う癖を持つわけではなかったが、ひとりで庭に出て、こういった風に椿を眺めるとき、時としてそれに語りかける調子で、思うことが口に出てしまうことがあった。

 庭に突き出した出窓から漏れ出た居間の照明が、眞奈子の赤く悴んだ頬を照らし出していた。日の出を待つ庭からは、床板の写真立ての奥に食卓がよく見えた。

 眞奈子の母が長年手入れし続けた庭は、帰郷してからは眞奈子が世話をするようになった。低いブロック塀に沿って植る伽羅木の生垣で囲まれていて、冬青に半ば隠されている玄関の側には腰ほどの石燈籠が六角の傘に黒い苔を広げている。導線に踏み石が置かれてこそいるものの、大きくはない庭に草木が都度繁るので、肩に葉が触れずに渡ることも難しい。

 往来から中が見えないようにと母が工夫したものだったが、庭は母の性質が顕れていた。出窓が往来に向いていることを良いことに、度々空き巣に入られたために、家を開けるときには必ずラジオを流し放しにするのと同時に、庭を木々で埋め尽くすようになった。好き勝手に伸ばしておくのを嫌がった母の性質のために庭らしいが、その本質は目隠しの御簾である。

 眞奈子は母の性質に準って、いつかの大雪ですっかり枝を駄目にしてしまった灯台躑躅の後釜にこの椿を植えた。葉の色が鈍くなる時期こそあるけれど、硬葉のよく繁る常磐木だから、植えてしまえば出窓は窓枠が木の葉からちらと見えるだけになった。

 花が咲くと食卓からちょうど窓越しに見えた。磯六はそれに気付くと娘に、

「へえ。いいじゃないか。」とゆっくり言った。「躑躅は冬枯れして、庭が寂しくなるけど、椿はこりゃなかなか…。」

「なあ。ええどっしゃろ。」と眞奈子が言うと、父は「良え、良え。」と頷いて、また出窓のほうを見た。痩せた首元の筋がぴんと張って、縦皺が浮かんでいた。

「卓郎はどう思う。」と、磯六は振り返った。眞奈子もつられて兄に目線をやると、一重で吊り上がった眦に控えるその瞳がよく見えた。卓郎は眞奈子から、窓辺の方へ目線をずらしていった。

「寛衣みたいだ。」と卓郎は言った。

「寛衣?」と眞奈子が問うと、

「そう寛衣。ゲルマンあたりにルーツのありそうな少女が着ているような…、そうだ。丁度、サージェントの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』のモティーフの娘らが着ているあの感じ。」

 眞奈子は「ああ。」と声を漏らした。居間にあるテート・ギャラリーの画集のなかに、確かにサージェントのそう言った作があった。

 奥の見渡せないほど鬱蒼とした草木のなかで提灯を抱えた二人の少女が、向き合うかたちになってそれぞれ手元の灯火を覗いている。サージェントの友人であるフレッド・バーナードの娘らで、ひとりはまだ十にも満たない。少女らを覆うようにして山百合が垂れ、肩高程の乙女色の薔薇が二人を囲い、足元には葡萄茶と薄黄蘗のカーネーションが咲いている。暮れ方の薄暗いなか、彼女らの手元の、またはその周りに吊るされた提灯がそれらを仄かに照らし出している。

 二人の少女は白い広々としたワンピースに身体の輪郭を隠していた。まさしく「寛衣」と言った服を着ていた。少女の当てがる掌が赤く彩られているのが、よく思い出された。

「卓郎はあれが好きやな。僕がテート・ギャラリーの画集をそこに置いておくうちに、サージェントのページに慣れが出来てもうたなあ…。」

 磯六は嬉しそうに言って、頬杖をついた。机の縁に肘をついて、右手の甲に頬を乗せる。若い頃からの磯六の癖で、何か感慨があるときはいつでもその姿勢を取った。家族に注意されても治らないから、肘に膿が出来たこともあった。

「じゃあ、ロセッティの『受胎告知』で、処女マリアが着てはるようなんも、そういう寛衣?」と眞奈子は聞いた。

 同じ画集で、ラファエル前派の画家であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの描いた『主の侍女を見よ』と言う絵を眞奈子は眺めたことがあった。処女マリアの前に現れた大天使ガヴリエルが精霊によるその受胎を告げ、マリアはそれを受け入れる。ガヴリエルの右手に摘まれた白百合と、室内に置かれた青いパーテーション。赤い布衣に施された刺繍は、これもやはり百合が形どられている。両者の頭部には後輪がある。ガヴリエルの足は炎を纏い、マリアの足は見えない。

 伝統的なモティーフである「受胎告知」を描いたものだが、描かれた処女マリアはそれ以前の作とは異なり、等身大の少女らしい出立ちをしている。ロセッティの妹でのちに詩人となるクリスティーナがそのモデルにされたためか、聖なる女性と言うよりは、寧ろうら若き乙女と言ったように、顔には驚きか、怖れかの表情が浮かんでいる。

 提灯の娘たちの着るのよりも生地が重そうだが、白い服がゆったりと、床に座るマリアの足先まで覆っていた。袖がなく露わになった細い肩に、赤毛が薄ら掛かっている。眞奈子は宗教者でないためか、他の「受胎告知」の処女マリアよりも親しみのあるこの絵を、好ましく思っていたのだった。

「ああ、確かに…。あの処女マリアの纏ったのも寛衣らしい。」卓郎は少し間を置くと、独り言のように続けた。「『受胎告知』、それもロセッティのか。思えばどちらも寛衣に百合か…。」

 そこまで言ってそれきり黙り込んでしまった。何か考え込むように、卓郎はその花の白い開きを見つめていた。

 それから眞奈子はこの白椿を見るたびにこのやり取りが思い出されるので、サージェントの二人の少女か、床に腰を下ろした娘染みた聖母マリアを花びらの内に思い浮かべる癖がついた。少女の親しみが、眞奈子に独り言を言わせるのかも知れなかった。

 台所に戻って、眞奈子はようやく凍えが身に染みてきた。シンクの湯に手をかけると、手指が真っ赤になって痺れた。キッチンの明かり取りが青くなっていた。

 食卓のとくに決まったわけではないが、自席に腰を下ろし、出窓のほうを見やった。陽が出始めて、外が見えていた。結露した硝子に白い斑が浮かんでいた。

「切り花にするには、もう少しかかりそうか…。」

 気付いて眞奈子は上唇に手を当てがった。陽が差し込んできたので、照明を消すと、窓硝子が眩しかった。

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