第46話 雨とカスリメティ

 朝から、雨だった。

 港の方角から湿った風が店の欄間を叩き、木の床はいつもより黒く艶を帯びている。

 「アマラ」の開店札はまだ裏向きで、砂原蓮は窓枠に新しい新聞紙を挟んで水を吸わせていた。布巾は絞っても絞っても冷たい。湿度は香りを重くする。——それを、手の甲の産毛が知っている。


「雨の日は、匂いが沈むんです」

 蓮が言うと、遠藤茜は頷き、黒板に今日の段取りを書き直した。

 “ピクルス→席→タルカ→待ち(+10秒)→カレー”。

 昨日までの3分に、小さく“+10秒”と付け加えられている。


 扉が控えめに開き、片桐が現れた。傘の先から落ちる水滴が、床に円を作る。今日はスーツの上に薄いレインコート。腕に封筒を抱えている。


「おはようございます。……ちょっと数字を」

 封筒から出てきたのは損益のラフと、雨天日の客数の推移。片桐は言葉を選びながら続けた。「梅雨時は原価の吸収が厳しい。『最後の座席』は残していい。ただ、他をもう少し回したい。——でも、あなたたちのやりたいこともわかる。今日は“雨の正解”を見つけましょう」


「数字を敵にしないで済む匂いが、きっとある」

 塩見幸一は、欄間の角度を指先で調整しながら言った。「湿度で香りは重くなる。だから“鳴らし方”を変える」


「鳴らし方?」


「葉の砕き方と、火を落とす音だ」


 そのとき、カウンター下の古い茶筒が、掃除の拍子にコトンと倒れた。蓮が拾い上げると、底から小さなカセットが出てきた。透明なプラスチックの側面に、色の褪せたテープ。油と紙の混ざった匂いがする。


「なんですか、これ」茜が目を丸くする。


「母のやつかもしれない」

 蓮は手を拭き、カセットプレーヤーを引き出しから出した。ボタンを押すと、雑音の奥から雨の音が広がる。遠くで風鈴、店の中のような響き。そして、落ち着いた女性の声が短く言った。


『音で火を止めなさい。雨の日は葉をやさしく。待ちはひと息、長く。』


 それだけで、テープはぷつりと途切れた。

 カウンターの向こうで、老婦人が傘を閉じながら立っていた。「あら、今日は特別な音がする」


「おはようございます」蓮が頭を下げる。「雨ですから、“帰り道カレー”は少し甘めで」


「ええ、急がない匂いでお願いします」老婦人は帽子を軽く撫でた。「雨の日は、あの人がゆっくり帰ってきたの」


 仕込みが始まる。

 玉ねぎはいつもより水分が抜けにくい。蓮は焦らず、木べらを薄く動かす。鍋肌の音が、湿度で多少鈍い。塩見は小鍋の油を静かに温め、カスリメティの小瓶を手に取った。


「今日は、葉を指の腹で」

 塩見が言って、蓮の手を見た。「爪を立てない。擦らず、押す。雨の日の葉は、砕け方で呼吸が変わる」


 蓮は頷き、指の腹で一枚ずつ葉をつまんだ。湿った空気の中で、葉が静かにほぐれる。指先に粉が少しだけ付く。

 茜はスマホを伏せ、録らない。こういうときは、場の静けさを優先するのが彼女のやり方だ。


「タルカ、行きます」

 レードルの先が油面に触れる。チ……チチ。乾いた日よりも、音は低くて、短い。

 香りが、重い空気の背中を押されるようにしてゆっくりと動く。欄間からの風が弱い。塩見は換気扇をさらに落とした。「香りを、低く歩かせる」


 “待ち”に入る。

 蓮は砂時計を見ない。代わりに、呼吸をひとつ分、長く取る。

 3分と“+10秒”。雨のひと息。


 老婦人は目を閉じ、「先に、傘を立てる音がしたわ」と微笑んだ。

 蓮は静かに皿を置く。香りが席に座る。

 片桐は腕を組んだまま、口を開いた。「……これは、数値ではなく、『手順の言い訳』で通せそうです。『雨の日は待ちを長くする』。客に“理由”があると、待てる」


「理由より、場だ」塩見は短く言い、葉の瓶を示した。「もう1回」


 2回目は、葉を砕きすぎて香りが「飛び」かけた。

 3回目、砕きが浅すぎて、香りが鍋の縁で座り込んだ。

 4回目、蓮は指の力をほんのわずか抜く。葉が指の腹で折れ、粉が少しだけ指についた瞬間、鍋の油がひとつだけ高く鳴った。カラン——。テープの向こうの風鈴と、どこかで重なる音。


「……今だ」

 塩見の声を待たず、蓮は火を落とした。油が静まり、香りがゆっくり立つ。

 老婦人は、帽子のつばを指で押さえた。「今日は、玄関の匂いが先に笑った」


 茜は黒板に短く書いた。“雨は葉の指で晴れる”。

 片桐は封筒から別紙を出し、現実に引き戻す。「この“雨正解”は本店の話として。……それと、明日、役員が来ます。午前の部、ここで」


「明日か」蓮の喉が上下した。「やれます」


「やれます」塩見が代わりに言う。「ただ、条件は?」


「タルカの小鍋、材質の確認。レードルも。——安全規格で、金属粉リスクを指摘される可能性があります。小鍋を叩きすぎると、微細な剥離が……」


「叩かない」塩見は静かに答えた。「鳴らす」


 雨は強くなり、店の前の水たまりが光を揺らした。

 午後の来客は少なかったが、香り券の封筒には、商店街の人たちが静かに紙を差し入れていく。井上が「子ども食堂、雨天でも開けます」と言い、蓮は「タルカの香りを弱めた“帰り道”を持っていきます」と返した。


 夕方、灰色の空がさらに低くなるころ、蓮はひとりで鍋の前に立った。

 カセットをもう一度回す。雑音、雨、風鈴、そして志帆の声。


『音で火を止めなさい。雨の日は葉をやさしく。待ちはひと息、長く。』


 蓮は目を閉じる。指の腹で葉を押す。チ……チチ。

 音は小さく、だが確か。息をひとつ分、長く取る。

 皿に盛ると、雨の匂いが香りに混ざり、店の中に小さな“帰路”ができる。——家の前の、あの短い坂道の匂い。


「母の、朝の指の温度です」

 蓮は小さく言い、笑った。「やっと、思い出せました」


 老婦人は、手提げから小さなハンカチを出し、皿の縁の水滴をそっと拭いた。「あの人は雨が嫌いだった。でも、匂いで帰ってきた。今日は、ちゃんと帰ってきた」


 片桐はスマートフォンを取り出し、役員へのメールを書いた。「明日は“雨正解”も含めて提示。『待ち』の説明は短く——“香りが座るため”。」

 送信し、端末を伏せる。彼は言葉を足した。「……僕も今夜はまっすぐ帰ります。父が、雨の日は機嫌が悪いから」


「温かい匂いを、先に座らせてください」茜が微笑む。「“帰り道”は、おうちにも作れます」


 雨足が、少しだけ弱くなった。

 店の奥で、棚に重ねた器がひそひそと鳴る。蓮は最後の皿を洗い、布で拭き、高台に指をかけて棚に戻す。

 そのとき、レジ下の引き出しから封筒が滑り出た。昨日の伝票の下に隠れていた小さな紙切れ。滲んだ鉛筆で、短く書いてある。


 ——港倉庫/香辛航路 着/雨天、待ち+10秒


 塩見はそれを見るなり、目を細めた。「あの人は、雨の日も“航路”を意識していたのか」


「誰の字ですか」蓮が問う。


「……多分、父の」

 塩見は少しだけ遠い声で言い、封筒を蓮に返した。「明日は、雨でも晴れでも、ここでやる。席を、匂いで満席にしよう」


 閉店札を裏返す前、茜は黒板を消し、新しい一句を書いた。

 “雨の指、葉はやさしく、火は静か”。


「明日の役員、何人ですか」蓮が聞く。


「6人」片桐は短く答え、「それと——」と続けた。「品質管理の担当が“タルカ小鍋の材質変更”を求めています。鉄は避け、ステンレスに、と」


 蓮は息を飲む。「音が、変わる」


「変わる」塩見は頷いた。「だが、鳴らせる。鳴らし方を変えるだけだ」


「やれますか」


「やる」

 塩見は鍋の取っ手を軽く叩いた。どこかで、雨がひとつ、窓を打った。


 店を出ると、路地の明かりが水の上で揺れた。

 老婦人は傘の中で小さく会釈し、「明日も“最後の座席”におかえりをお願いします」と言って帰っていった。


 雨は相変わらずだが、匂いは沈まない。

 香りは、待てば座る。座れば、帰ってくる。


――

匂いの一句:雨の指、葉をやさしく、待ちひと息。


(作中注)カスリメティ:乾燥フェヌグリークリーフ。仕上げに指の腹で軽く砕き、香りの“立ち上がり”を助ける。湿度の高い日は砕き方と“待ち”で香りが変わる。

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