第12話 交わる二つの流れ

店内の静寂は、夜の海のように深く、冷たかった。営業が終わり、北村は一人でカウンターを拭いている。その背中には、何十年も寿司に向き合い続けた男の疲れと誇りが漂っていた。


厨房の奥から、娘・美咲がそっと顔を出す。彼女の手には、自分が作った新しい寿司が盛り付けられた皿があった。明かりに照らされた寿司は鮮やかで美しく、地元の魚を使いながらも、東京で学んだ手法が活かされている。


「お父さん、これを食べてほしい。」

美咲の声は小さかったが、そこには覚悟が宿っていた。


北村は手を止めて、娘の顔をじっと見つめた。その表情は険しく、何も言わずに皿に目を向ける。そして、無言のまま一つ手に取り、口に運んだ。


静かな時間が流れる中、北村がようやく口を開いた。

「……美味い。だが、これはお前の味じゃない。」


美咲は一瞬息を呑む。

「どうして?地元の魚を使って、私なりに工夫したつもりなのに。」


北村は皿を静かに置き、答える。

「確かに技術もあるし、味も悪くない。だが、この寿司からはお前自身の想いが伝わってこない。」


美咲の目が揺れる。

「想いって何?私は、お父さんのやり方を守りながら、新しいものを作りたいだけなのに……!」


北村は少しだけため息をつき、低い声で答えた。

「寿司を握るのは、ただ魚を切ってシャリを握るだけじゃない。魚の命を預かり、それをどう伝えるかだ。お前は、その魚と向き合っていない。」


美咲の表情が強張り、すぐに怒りの色が浮かんだ。

「お父さんみたいに頑固に同じやり方を続けるだけじゃ、これからの時代、生き残れないよ!変わることを恐れてるだけじゃないの?」


北村はその言葉に表情を変えず、ただ静かに言った。

「恐れているのはお前だろう。自分の味で勝負することをな。」


その言葉に、美咲は何も言い返せなかった。唇を噛みしめ、涙を浮かべたまま厨房へと駆け込んでいった。


カウンターに座っていた塩見が、その一部始終を静かに見守っていた。北村が再びカウンターを拭き始めると、塩見は重い口を開いた。

「……親子ってのは難しいものだな。」


北村がちらりと塩見を見た。

「その通りだ。だが、親が子を理解するのに何十年かかるか、子が親を理解するのに何十年かかるか、それは分からんものだ。」


塩見はしばらく黙り込んでいたが、やがて静かに語り始めた。

「俺にも父親がいる。職人気質の人間だ。ずっと黙って働いて、ただ結果を出し続けるだけの人だった。」


北村が塩見の顔をじっと見つめた。その視線には、無言の問いかけが込められている。


「だが、俺は父のやり方が嫌いだった。結果を出すことだけが正しいと思ってるような人間にはなりたくないと思った。俺は違う道を選ぶべきだと、ずっと思っていた。」

塩見は、まるで誰かに聞かれることを恐れるかのように小声で続ける。


茜がそっと隣で聞き耳を立てていたが、その話に口を挟むことはできなかった。


「だが、あるとき気づいたんだ。父は、俺に何も強要していなかった。ただ、背中で教えようとしていただけだったってな。」


塩見はそれ以上何も言わなかった。ただ、その表情には、どこか後悔と憂いの色が浮かんでいた。


北村が短く言った。

「親が子に伝えられるのは、言葉じゃない。背中だけだ。」


その言葉に、塩見は静かに頷いた。


一方、厨房に籠った美咲は、涙を拭きながら父の言葉を思い返していた。「自分の味で勝負することを恐れている」という言葉が胸に突き刺さって離れない。


美咲は冷蔵庫から魚を取り出し、無意識に包丁を握っていた。手元には、父が仕入れた地元の鮮魚が並んでいる。その一匹一匹を見つめると、彼女はふと気づいた。これらの魚が、どんな環境で育ち、どのように生き抜いてきたのか――それを感じ取ることで、寿司が初めて「命を握る」ものになるのだと。


彼女は父から教えられた技術と、自分が東京で学んだ手法を重ね合わせ、もう一度新しい寿司を作り始めた。包丁が魚の身を切る音、シャリを握る手の温かさ――すべてが、これまでとは違う感覚で自分の中に入ってくる。


「……今度こそ、私の味で勝負する。」

美咲の目には、涙ではなく新たな決意が宿っていた。


翌朝、美咲は父に一皿の寿司を差し出した。その寿司は、地元の魚を使いながらも、美咲自身の感性と想いが込められていた。


「これが、私の握った寿司です。」

美咲の声は静かだったが、その目には揺るぎない自信があった。


北村は無言でそれを手に取り、一つ口に運んだ。長い沈黙が流れる中、北村は目を閉じ、じっくりと味わっていた。そして、ゆっくりと目を開け、初めて小さな笑みを浮かべた。


「……いい寿司だ。」


その一言に、美咲の目から再び涙が溢れた。だが、それは悔しさや悲しさではなく、安堵と喜びの涙だった。


塩見が静かに呟いた。

「これで、お前たちの寿司が始まるな。」


その日の昼、塩見と茜は店を後にした。漁港の風は柔らかく、空にはカモメが舞っている。


「親子って、すれ違っても、こうやって一つになれるんですね。」

茜が微笑みながら言った。


塩見は小さく頷いた。

「すれ違いの中にあるものを見つけられたらな。」


その言葉には、彼自身の父への想いも含まれているようだった。だが、茜はそれ以上聞こうとはしなかった。


次回予告


塩見と茜が次に訪れるのは、信州の山間にひっそりと佇む一軒の蕎麦屋。「季節の一滴」と呼ばれる店主の蕎麦は、信州の大自然の恵みをそのまま閉じ込めた一品として知られている。しかし、店主・大久保善三は高齢になり、後継ぎ問題に悩んでいた。そんな中、弟子である若い職人・篠田圭が、伝統と自分の新しい手法との狭間で苦悩していた。


大自然の中で生まれる蕎麦打ちの緊張感、そしてそれを通じて紡がれる人間のドラマ。塩見の心にも、忘れかけていた記憶が呼び起こされる――。


次回、「山に響く一滴」――信州の大地が育む蕎麦と、職人の葛藤が交差する。


読者へのメッセージ


蕎麦は、シンプルだからこそ奥が深い料理です。その一杯には、大地の恵みと職人の技、そして食べる人への想いが凝縮されています。次回は、信州の美しい自然を舞台に、伝統を受け継ぐとはどういうことなのか、そして革新とは何かを問いかける物語をお届けします。


塩見と茜が紡ぐ旅路の先で、何が見えてくるのか――次回もどうぞお楽しみに!

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