第6話 北のラーメン、フレンチの香り
塩見と茜が小さな店「熊五郎亭」の木製カウンターに腰を下ろすと、静寂が二人を包み込んだ。店内はこぢんまりとしており、カウンター席が数席と、小さなテーブルが二つほどあるだけだ。壁には「味を楽しめ」と書かれた手書きのメニューが貼られ、シンプルだがどこか凛とした空気を漂わせている。
店主の高田熊夫は、無言のまま二人に水を差し出す。40代半ばのその姿は、どこか冷たく、張り詰めた職人のオーラを纏っている。茜はその視線に少し緊張しながら、笑顔を浮かべた。
「すごく落ち着いたお店ですね。なんだか高級感があります。」
茜の声に、店主は一瞬だけ視線を向けたが、何も答えずに厨房へと戻った。
「……無愛想な人ですね。」
茜が塩見に小声で囁く。
「いいじゃないか。こういう人の方が、料理は期待できる。」
塩見はそう言ってカウンター越しに店主の手元をじっと見つめている。
「ラーメンでフレンチの技術を使うって、一体どんなのなんでしょう?」
茜が興味津々に尋ねると、塩見は短く答えた。
「見れば分かる。」
店主の手元が動き始める。鍋の中に、澄んだスープが静かに煮立っている。その上にふわりと湯気が立ち、香りがカウンター越しに漂ってくる。魚介の出汁に、鶏の骨から取った旨味が重なり、複雑な香りを生み出している。
塩見は鼻を少し動かし、その香りを感じ取った。
「……ベースは鶏白湯だな。だが、そこに魚介が重なっている。」
「本当だ。なんか、ちょっと海の匂いがしますね。」
茜が驚いたように言った。
店主は無言のまま、スープに手を加える。カウンターの横に並べられた小瓶から、一つを手に取り、少量のオイルをスープの中に垂らした。オリーブオイルの香りが広がり、さらに深みを加えていく。
「……ラーメンでオリーブオイル?」
茜がぽつりと呟いた。
「ここがフレンチだ。」
塩見は静かに言った。
次に、店主は麺の準備を始める。冷蔵庫から取り出した麺は、細めで艶があり、手打ちされたものだとすぐに分かる。その麺を茹でる間に、トッピングの具材が用意されていく。
まずは鴨肉。フライパンでじっくりと火を通されるその香りが、バターとハーブの芳醇な香りを放つ。茜は思わず目を輝かせた。
「これ、ラーメンのトッピングなんですか?まるでフレンチのメインディッシュみたい!」
塩見は鴨肉の焼き加減を目で追いながら、小さく頷いた。
「焼きすぎていない。中はまだ少しピンク色だ。肉の旨味を逃さない技術だな。」
店主は続いて、薄くスライスしたトマトをバーナーで炙り始める。甘みを引き出したトマトが、香ばしい匂いを立ち上らせた。さらに、アクセントとしてフレンチパセリを軽く刻み、トッピング用に用意する。
「ラーメンにトマトって、なんだか斬新ですね。でも美味しそう!」
茜がわくわくした様子で言った。
「斬新かどうかは関係ない。問題は、それが全体にどう調和するかだ。」
塩見は冷静に言った。
店主が麺をスープに沈め、丁寧に盛り付けを始める。鴨肉が美しく麺の上に並べられ、炙られたトマトが彩りを添える。最後にフレンチパセリが散らされ、ほんの少しだけオリーブオイルを上から回しかける。
「……できた。」
店主が短く言い、ラーメンを二人の前に置いた。
その一杯は、ラーメンというよりも、一つの芸術作品のようだった。黄金色のスープが澄み渡り、その中に浮かぶ具材たちは美しく配置されている。湯気が立ち上り、スープの香りが二人の鼻腔をくすぐった。
「いただきます!」
茜が箸を取り、一口スープをすくって飲んだ。
「わっ……これ、美味しい!優しい味だけど、すごく深みがあります!」
塩見も静かにスープを一口飲む。口の中に広がる魚介と鶏の旨味、その後にほんのりと香るハーブの清涼感。それは確かにフレンチの手法が加わったラーメンだった。
「……スープは見事だな。」
塩見は低い声で言った。
「だが。」
塩見が箸を置き、店主を見つめる。その視線に茜が緊張したように顔を上げた。
「このスープは見事だ。麺との相性も悪くない。だが、何かが足りない。」
塩見の言葉に、店主の眉が動く。
「何かが足りない……?」
店主が低い声で尋ねる。
「料理は技術だけでは完成しない。お前のラーメンは美しい。だが、そこに“熱”が感じられない。」
塩見の言葉に、茜は驚いて彼を見た。
「塩見さん、こんなに美味しいのに何が足りないって言うんですか?」
茜が慌てて言う。
「作り手の想いだ。」
塩見は静かに答えた。
「お前はフレンチの技術を使いこなしている。それは分かる。だが、それを使って何を伝えたいのかが伝わってこない。」
店主はその言葉にしばらく黙り込んだ。そして、小さく呟く。
「……そんなことを考えたことはなかった。」
店を出た二人は、冷たい夜風に包まれながら歩いていた。街灯の明かりが、静かな道路をぼんやりと照らしている。
「塩見さん、いつも思うんですけど……料理にそんなに想いが必要なんですか?」
茜がぽつりと尋ねた。
「料理は人を繋ぐものだ。技術だけでは、人の心は動かせない。」
塩見の言葉に、茜は静かに頷いた。
「でも、今日のラーメン、本当に美味しかったですよね。あのお店、もっと人気が出るんじゃないですか?」
「そうかもしれない。だが、まだ伸び代がある。あの店主がそれに気づけば、もっといいものを作れる。」
塩見は前を見据えて歩き続けた。
次回予告
技術と想いの間で揺れる店主・高田。フレンチの技術を駆使したラーメンに込められるべき「熱」とは何か。塩見の言葉が、店主の料理にどのような変化をもたらすのか――。
次回、「スープに込める情熱」。
黄金色の一杯が描く、人間の再生の物語。
読者へのメッセージ
料理とは、食べる人と作り手の心を繋ぐもの。本作では、その想いがどのように料理に宿り、どんな物語を生むのかを描いていきます。フレンチラーメンという新たな挑戦に込められた想いを、どうぞ最後まで見届けてください。次回もお楽しみに!
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