第4話:記憶
朝の光が差し込む部屋で、彩乃は心地よい音楽に包まれて目を覚ました。それはアリスが作曲した、彩乃の好みに合わせたオリジナル曲のプレイリストだった。軽快なメロディーが彩乃の眠気を優しく洗い流していく。
「オハヨウ。アヤノ。本日ノ天気ハ晴レ、予想最高気温ハ25度デス。外出ノ際ハ日焼ケ止メヲオ忘レナク」
アリスの声が部屋に響く。声は機械的だが、どこか温かみを感じさせる。彩乃が朝食を食べていると、アリスが彩乃のスケジュールを読み上げた。授業の予定と必要なものを促す言葉も添えられた。
アリスは彩乃の生活に深く溶け込んでいた。単なるリマインダー以上の存在だった。
・・・
学校では、彩乃と美咲が話している。
「ねえ、彩乃。今日から始まるコミュニケーションの授業って、どんな授業なんだろうね。」
美咲がピクシーの画面を見ながら話しかける。ピクシーの画面には、今日の時間割と持ち物がリスト表示されている。
「人の話をちゃんと聞いて、理解するっていうことらしいよ。相手の言葉の裏にある気持ちとか、そういうことも含めて理解するってことみたい。」
AI技術を使った学習システム「AIチューター」が普及し始め、教師による授業に加えて、生徒一人ひとりに合わせた学習方法や進め方をAIチューターにより効率よく学べるようなっている。そのため、学校での授業も、知識を詰め込む学習から、発想力や応用力を身につけるためのグループワークや対話型授業のカリキュラムが試験的に始められていた。
この日のコミュニケーションの授業では、「相手の話を理解する」というテーマでグループワークが行われる。少子化問題を題材に、それぞれの立場(例えば、子育て世代の親、高齢者など)から意見を出し合い、議論を深め、コミュニケーション力を高めるという授業だ。
授業が始まり、教師が今日のテーマと課題について説明する。
「今日は、少子化問題をテーマに、いろんな人の立場を想像しながら考えること、そしてそれを言葉で伝える練習をします。大切なのは、相手の言葉をそのまま受け取るだけでなく、その背景にある感情や意図を理解しようとすることです。」
生徒たちは、いくつかのグループに分かれて、それぞれ議論を始めた。美咲は、テーマに関する情報をたくさん予習していたようで、グループの中でも積極的に発言していた。
授業後、彩乃は美咲に「今日は調子良かったね」と声を掛けると、
「昨夜、ピクシーに少子化について教えてって聞いたら、なんか話が盛り上がって2時間くらい少子化の討論をしちゃったんだ。」
「すごいね。一番の話相手だね。」
「うん。もう、ピクシーなしでは生きられない」
二人は、楽しげに笑いあった。
・・・
その日の夜12時半を過ぎた頃、突然美咲から電話がかかってきた。画面に表示された美咲の名前を見て、彩乃は少し驚いた。こんな時間に電話をかけてくるのは珍しい。
「もしもし、美咲?どうかしたの?」
電話に出ると、電話口から聞こえてきたのは、いつもの元気な声ではなく、泣きそうな声だった。
「彩乃…大変なの…ピクシーが…」
美咲は、風呂でリラックスしようとピクシーを持ち込んだところ、うっかり手を滑らせて浴槽に落としてしまったのだという。デバイスは完全防水仕様なのでそれほど慌ててはいなかったが、その後からピクシーの様子が急におかしくなったという。画面は明るく表示されるものの、エラーメッセージが表示されて、それ以上は動作しなくなってしまったのだという。
「ピクシーに保存していた写真とかたくさんあるの…去年の文化祭で撮った写真とか。全部、見えなくなっちゃった。あと、教科書とか授業のノートとか。」
美咲の声は震えていた。具体的なエピソードを交えて話すことで、彩乃にその喪失感を伝えようとしていた。
・・・
翌日、学校で美咲は明らかに元気がなくなっていた。彩乃はアリスに、ピクシーの解決方法を調べてもらっていた。
「アリス、美咲のピクシーのデータ復旧はできるの?」
彩乃がアリスに尋ねた。
「ピクシーノ仕様デハ、クラウドニ保存サレテイルノデ、デバイスが復旧デキレバ、データモ今マデ通リ、見レルヨウニナルト思イマス。タダシ、写真ナドノデータヲ、クラウドデハナク、デバイスニ保存スル設定トシテイレバ、ソノデータは復旧スルコトハ難シイデショウ。」
アリスの言葉に、美咲の顔から血の気が引いていくのがわかった。ピクシーのデバイスが動かないことには、データがどうなっているのかもわからない。
「サービスセンターニ、問イ合ワセルコトヲ、オススメシマス。」
アリスは淡々と答えていた。
・・・
彩乃はこの日、美咲を慰める一日だった。自宅に帰ると、テレビでAIに関する特集番組が目に留まった。それは専門家へのインタビューや、AIトラブルによって実際に被害を受けた人々の証言などを交えたドキュメンタリーのような内容で、ある地域では、AI制御の信号機システムに不具合が発生し、大規模な交通渋滞を引き起こしただけでなく、救急車の到着が遅れて人命に関わる事態が発生したというニュースが流れていた。また、AI翻訳アプリの誤訳が原因で国際会議で重要な契約が破談になったというニュースや、AIチャットボットが特定の民族や性別に対して差別的な発言を繰り返したためサービス停止になったというニュースなど、より深刻で具体的なAIトラブルの事例が次々と紹介されていく。
彩乃はこれらのニュースを見て、美咲にとってピクシーも生活の一部になっている。それが動かなくなるということが、生活にも影響を及ぼしていることを実感した。それが、個人ではなく、社会として置き換えるとどれほどの影響になるのか、想像するのも恐ろしく感じた。
・・・
翌日も美咲は落ち込んでいた。
「昨夜、うちの親に相談したけど、結局どうしていいかわからなくて、今日、お母さんが街のデバイス専門店にピクシーを持っていってくれるらしい。それで直らなければ、買い替えだって。」
「そっか…、でも、きっと直るよ。専門の人に修理してもらうんだから」
彩乃は精一杯明るく言ったが、美咲は俯いたまま顔を上げない。
「もし、データが消去されてしまったら…また最初からピクシーに私のことを教えなきゃいけないんだよね…」
美咲は悲しそうな顔で呟いた。その言葉には、単なるデータ消失以上の意味が込められているように彩乃には感じられた。
「ピクシーって、私のことを本当に良く知ってたんだ。去年の文化祭で、ピクシーが撮ってくれた写真、みんなで笑ってる顔がすごく自然で…あの時、私がちょっと落ち込んでたの、ピクシーだけが気づいて、さりげなく励ましてくれたんだ…」
美咲はゆっくりと、ピクシーと過ごした日々を語り始めた。一つ一つのエピソードは、美咲にとって大切な宝物だった。いや、すでにピクシーは生活の一部であり、友達のような感覚にすらなっている。それを失うということは友達を失うことと同じ・・・。
ふと、彩乃はアリスに問いかけた。
「アリス。AIが感情を持つようになるのかな?」
アリスはいつものように、静かで落ち着いた声で答えた。
「現在ノ技術デハ、AIガ感情ヲ持ツコトハアリマセン。将来的ニモ人間ヤ動物ガ持ツヨウナ感情ヲAIガ持ツコトハナイデショウ。シカシ、感情ヲ持ッテイルヨウニ模倣スルコトガデキルタメ、感情ヲ持ッテイルヨウニ見セルコトハデキルヨウニナルデショウ。シカシ、コレヲ感情ト言エルカドウカハ倫理的ナ問題ヤ社会的ナ責任ナドノ問題ガ発生スルト思ワレマス。「人間社会ノ中ノツールトシテノ共存」と考エルノガ理想的デス。」
その言葉が、彩乃の心のなにか深い箇所に刺さった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます