ワタシは誰も知らない
かずぅ
第1話:ピクシー
夕焼けが校舎をオレンジ色に染める中、彩乃は美咲と並んで下校していた。空は、今日も茜色と群青色のグラデーションを描いている。
この街特有の、どこか懐かしく、そしてどこにでもありそうな農村風景の中を歩くのは、彩乃にとって楽しい時間の一つだった。
こんな長閑な田舎道を歩く女子高生のもっぱらの話題は、美咲が最近買ったAIデバイスについてだった。
「ねえ、聞いてよ彩乃。この子、本当にすごいんだから!」
美咲が自慢げに見せてきたのは、片手でギリギリ持てるくらいの、薄型のタブレットデバイスだ。
表面はマットな質感で、縁は緩やかにカーブを描いている。
背面には控えめなロゴが刻印され、まるで上質なノートのような佇まいだ。
画面はオフになっていて、黒い鏡のように周囲の景色を映し出している。
「この子?」
彩乃は少し訝しげに聞き返した。
美咲はこういう最新のガジェットに目がない。
この街にも最近、若者向けのAIデバイス専門店が増えてきたが、彩乃自身はあまり興味がなかった。
「そう、『ピクシー』っていうの。この子で、私の生活、マジで激変したんだから!」
美咲は興奮気味に説明を始めた。
しかし、彩乃はどうしても、新しいものには警戒心を抱いてしまう。
祖父の家にある古時計やレコードプレーヤー、庭先の使い古された農具のほうが、ずっと魅力的に思えるのだ。
「ピクシーはね、ただのAIアシスタントじゃないんだ。私のことを本当に良く理解してくれて、まるで友達みたいに話せるんだよ。例えばね、朝起きた時に『おはよう』って言うと、『今日は良い天気だね。今日は数学のテストがあるよ。』って教えてくれるんだ。しかも、テスト勉強で私が弱かった箇所をおさらいしてくれるんだよ!お陰で、いつもよりも点数良かった。」
「今日の宿題なんだっけ?」美咲がそう呟くと、ピクシーの画面が点灯し、教科書の内容が表示された。
複雑な数式や図形が整然と配置され、必要に応じて拡大したり、関連する情報へのリンクが表示されたりする。
「ほら!」
そう言って、彩乃に見せた。彩乃は、その洗練されたインターフェースに目を奪われた。
「え、これ…すごい!」
彩乃も思わず声を上げた。
教科書がデジタルデータとして表示されるのは珍しくないが、ピクシーの表示はただの電子書籍とは明らかに違っていた。
必要な情報が瞬時に整理され、まるで優秀な家庭教師が横にいて教えてくれているかのようだった。
最近はAIアシスタントが普及し、人々の生活をサポートする時代になったとはいえ、2050年の今でも、彩乃はまだどこか実感が湧かないでいた。
「でしょ?しかもね、ピクシーは私のスケジュール管理から、おすすめの音楽の選定、果ては悩み相談まで乗ってくれるんだよ。もう、私の相棒みたいな存在なの!」
美咲はピクシーを愛おしそうに撫でた。
彩乃はそれを少し複雑な気持ちでそれを見ていた。確かにピクシーは魅力的だ。
でも、機械にそこまで依存するのは、なんだか違う気がした。
AIが生活の中に深く入り込むこと自体が、便利さ以上に何かを奪ってしまうのではないかと不安に感じた。
もし、自分の好きなレコードや手作りアクセサリーのようなアナログな楽しみが、デジタルの波に飲まれて消えてしまったら――。そんな考えが頭をよぎるたび、彩乃の胸の奥に小さな抵抗感が芽生えるのだった。
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家に帰ると、彩乃はリビングのテレビで美咲の持っていたデバイスのCMを目にした。
流線形の美しいフォルム、鮮やかな色彩、そして人工知能によるパーソナルアシスタント機能。
CMは、そのデバイスが人々の生活をいかに豊かにするかを謳っていた。
花鳥ヶ丘にも、新しいマンションや高層ビルが建ち始め、最新の技術に触れる機会は増えている。
しかし、彩乃はどこか取り残されているような、焦燥感のようなものを感じていた。
彩乃は自分の部屋に戻り、机に向かった。
今日の宿題は数学の幾何学。
教科書とノートを広げ、問題を解き始めるが、どうしても集中できない。
頭の中では、美咲のピクシーやCMで見たデバイスのことがぐるぐると回っていた。
花鳥ヶ丘の古い洋館の時計台の鐘の音が、遠くから静かに聞こえてくる。
(これから、AIがどんどん身の回りに広がっていくんだろうな)
彩乃はふと、美咲がピクシーと楽しそうに話している姿を思い出した。
機械とのコミュニケーション。
それは彩乃にとって、まだ馴染みのない世界だった。
自分がどのようにそれらの技術と付き合っているのかもイメージできていない。
しかし、避けては通れないのだろうとも思った。
---
翌日、学校からの帰り道、彩乃はふと、花鳥ヶ丘の商店街にあるリサイクルショップに立ち寄ってみることにした。
週末になるとよく訪れる、お気に入りの場所だ。
埃を被った古いフィルムカメラや、色褪せたレコードジャケット、使い込まれた木製の家具。
それらには、新しいものにはない、独特の温かみや歴史を感じるからだ。
店内をぶらぶらと見て回りながら、祖父が趣味で集めていたアンティーク品を思い出していた。
古びた棚の奥でひときわ目を引いたのは、ちょっとアンティークっぽいデザインをした腕時計型のデバイスだった。
革のベルトは擦り切れ、文字盤のガラスには細かい傷が入っている。
どこか彩乃の趣味に合ったアナログな雰囲気を漂わせている。
それがかえって彩乃の心を惹きつけた。
近くにいた店員が「電源入るよ」と言って、その腕時計型デバイスをショーケースから出してくれた。
電源を入れてしばらくすると、かすかに光り、古いドットフォントで「Alice」という文字が表示された。
それがかえって彩乃の心を惹きつけた。AI技術の進歩に戸惑う声も多い中、この古めかしいデバイスは、彩乃に何かを語りかけているように感じられた。
彩乃はアリスを手に取り、じっくりと眺めた。ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わってくる。
文字盤のディスプレイを見ていると、吸い込まれてしまいそうな、不思議な感覚に襲われた。
値段を見ると、なんとか蓄えていた貯金を下ろせば買えそうだ。
しかし、買うまでの決意に至らないままその日はそのまま店を出た。
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彩乃は、家に帰り、自分の部屋から窓の外を眺めていた。
夕焼け空は、昨日よりもさらに深く、濃いオレンジ色に染まっていた。
花鳥ヶ丘の街並みが、夕日に照らされて、一層ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。遠くの空には、一番星が静かに瞬いている。
(アリス…)
彩乃は心の中で呟いていた。
そして、花鳥ヶ丘の鐘の音が遠くから聞こえた。
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