第1話 『真名井 湊』-1
あの子の顔を思い浮かべると、いつも困ったような控えめの笑顔をしていたなと思った。
その笑顔が黒い額縁の中におさまっていた。
異様な静けさと、人の足が床を擦る音。
低い声で途切れることなく着物のおじさんが何か呪文を唱えている。
たくさんの椅子にはまばらに人が座り、その椅子が向いている方向にはあの子は眠っている。
母さんに促されて、席を立つ。
クラスメイトが順番に、あの子の納められた小さな長細い箱の前に並んでいる。
大人たちは砂のようなものをひとつかみして額に近づけ、それをまた横のお皿に落としていく。
隣の子どもたちは、大人の真似をする。
僕の番が来た。
隣の母さんの動きを真似して、僕も砂を一掴み。
そしてそれを額に近づけ、横のお皿に戻す。
ざらざらとした感覚がしばらく指に残っていた。
母さんは僕の手を引き外へ出た。
続々と大人たちがあの子の箱に続く列へ並んでいく。
僕の手を強引に引っ張る母さんの手。
まだ、もう少しお話がしたい。
そう言い出せず、僕は母さんの手に引かれて歩き出す。ふと後ろを振り返ると、困ったような笑顔が僕を見送っていた。
「鍵どこいったのかしら……」
家の玄関の前で母さんは、黒い鞄の奥を探っている。頬を打つ風が冷たくて、早く家の中に入りたい。
「それにしても、驚いたわね。加害者までくるなんて……。どういう神経してるんだか。親としては顔も見たくないでしょうに……あぁ、あったあった」
そう言って母さんは鞄の奥から家の鍵を取り出した。
「ねぇ、母さん」
「どうしたの、みっくん?」
母さんが僕の顔を心配そうに覗き込む。
母さんは僕とあの子の仲を知らない。
僕は誰にも言っていなかった。あの子と仲良くすると目をつけられてしまうから。だから、一緒に帰ることもなかったし、遊ぶのは人のいない場所だけ。
人のいない場所でだってあの子と遊ぶ時はヒヤヒヤしていた。
一緒にいるところをクラスメイトの誰かに見られていたらどうしよう、そんなことを考えながらいつもあの子と遊んでいた。
それをあの子もわかっていた。
だからいつも申し訳なさそうな顔で、「遊んでくれてありがとう」と僕に言っていた。
なんだか自分の心の汚さを見透かされているようで嫌だった。
どうして僕はあの子と遊んでいたんだっけ?
「みっくん、あの子とは喋ったことなかったのよね?」
母さんが不思議そうに聞いてくる。
「……うん」
どうして、今になってもまだ僕は嘘をつくんだろう。母さんに言ったっていいじゃないか。
だってもうあの子はいない。
小学校もきっとあの子がいなくなったことで、大人たちが慌てて動き出す。
クラスの1人1人が呼び出されて先生から話を聞かれるんだろう。
先生だって本当は知っていたくせに。
知っていて見ないふりをしていたくせに。
「入りましょ」
母さんが玄関のドアを開ける。
あたたかい家の光が漏れてきた。
あの箱の中はきっと暗いんだろう。顔の部分に扉はあったが、その扉は開かれていなかった。
僕がみた最後のあの子の顔は写真のまんま。
どうして、僕はあの子とコソコソ遊んでいたんだろう。もっと僕が強ければ、堂々とあの子と学校の近くの公園で遊べたのに。あの子がいなくなることもなかったのに。
僕はあの子を可哀想だと思っていた。
可哀想なあの子に声をかけてあげる自分が好きだった。ただ、それだけだったのかもしれない。
冷たい風が吹き、僕は身震いをした。
木がざわざわと騒ぐ音も、寒さで鼻の奥がツンとする感覚も、冷たい空気の味も昨日と変わらない。
小学2年生の冬だった。
後悔したとしても、時間は戻らない。
リビングのテレビからは、また聞き飽きたニュースが流れていた。
『先日、第二南高校の体育倉庫で学生が暴行を受けた事件。加害者とされている少年の家族に取材を試みました』
「みっくんの高校の事件、まだまだ話題ねぇ。本当に大丈夫なの?」
洗い物をしていた母さんが、ニュースを聞いて心配そうに声をかけてくる。
「僕は大丈夫だよ」
「本当?お母さん、心配だわ……」
母さんは昔から心配性で過保護だ。
高校生の息子を未だに『みっくん』と呼ぶのはいい加減やめてほしいと何度も言っているのだけど、その度に涙目になって「反抗期……?」と言われるので、もう諦めた。
ニュースで連日連夜報道されているのは、先日、僕の通う高校で起きた暴行事件のことだ。
校庭の隅にある体育倉庫でカップルが男に襲われたという事件だ。
彼女の方は右手を骨折する大怪我。
そして彼氏の方は意識不明の重体らしい。
その日はクリスマスイブで学校は冬休みに入っていたが、幸いにも追試の関係で学校に残っていたという屈強な体格の教師が騒ぎを聞きつけて体育倉庫に駆けつけ、犯人はその場で取り押さえられたらしい。
犯人は未成年のため、実名報道こそされていないが、その正体を知っている者も少なくはなかった。僕もそのうちの1人ではあるが、不確かな情報を誰かに言いふらすことは避けたかった。
テレビを見ると、顔にモザイクをかけられた女性が自転車を引きながら報道陣から逃げている様子が映し出されていた。
犯人の母親だろう。
嫌な光景だ。
「行ってくるね」
そう言って通学リュックを背負う。
「あ!みっくん!お弁当!」
「ありがとう」
母親が趣味で選んだ猫の巾着で包まれた弁当箱を受け取り、僕は家の玄関を出た。
一月の冷たい空気が温まっていた身体を一気に冷やした。
教室でも、相変わらず事件の噂話だ。
僕は机に突っ伏したまま、寝たふりをしつつその噂話をBGMのように聞き流していた。
「指以外動かせないらしいよ」
「目も見えないってさ」
「犯人って、昔あいつがいじめてたやつなんだろ?」
「違くね?いじめてた子は自殺したんだろ?」
「てか、自業自得じゃね?」
「なんであんなのと、付き合ってたんだろうな花山さん」
クラスメイトの話は、憶測だけ。
なんの真実味もないものばかりでうんざりだ。
高校受験は失敗した。
試験日にインフルエンザになり40度の高熱の中別室受験をしたが、視界がぼやけて問題文を読むこともできなかった。
3月ギリギリで追加募集として受け入れてくれたこの高校は、あまり評判がいい高校ではなかったが、僕が中卒になってしまえば母さんは倒れるだろう。
周りとも馴染めず、友人らしい友人はできなかった。でも、別に苦ではなかった。誰も僕に興味はないし、誰も僕を邪魔とも思っていない。
僕は教室にいるだけの、ただの風景。
これに徹するのは案外心地がよい。
暴行事件に関する生徒たちの噂話は、噂が噂を呼びどんどんと架空の物語が出来上がっていっていた。
真実は当の本人たちに聞けば、すぐにわかることではあるが、誰も聞くことができない。
犯人は留置所。被害者の1人は意識不明。
真実なんて誰もわからないから、噂が一人歩きする。もし、この散らかった噂話に一つの事実を与えられるとすればそれは……。
ガラッ。
突然開いた教室のドア。そのドアを開けた人物を見てクラスメイトたちは一斉に静まり返った。
「あー、さむ」
首から布で吊った右手の腕をさすりながら、飄々とショートヘアをなびかせて彼女は教室に入ってきた。
クラスメイトたちははじめこそ、黙っていたが徐々にこそこそと話し始める。
全員の視線を集めていることに気づいているのかいないのか、彼女は堂々と教室を闊歩し自分の席……僕の隣の席にドカッとスクールバッグを置いた。
「花山さん、よく来れたよね」
「彼氏が重症なのに、全然平気そう」
「自分は腕折られただけで済んでよかったよね」
そんなクラスメイトのコソコソ話。
僕に聞こえるってことは本人にも聞こえているだろう。
そんな声もなんとも思わないのか……彼女、花山明良さんは自分の椅子に座り、手で隠すこともなく大きなあくびをしていた。
花山さんの印象は『何を考えているのかわからない人』だった。
はじめて花山さんを見たのは一年前、高校一年生の時。
彼女は学校の女子生徒の誰よりも目立っていた。
僕もはじめは、芸能人が入学したのかと思った。
彼女の目鼻立ちは浮世れしていた。切れ長の目に長いまつ毛、スッと通った鼻筋に、赤い唇の隙間からは小さな八重歯。その姿はどこか、美しくて神秘的な猫科動物が人間に化けて出たかのようにも見えた。
人間は、美しい人間を見たときに見惚れるよりも先にゾッとするんだとはじめて知った。
高校二年生になり、彼女と同じクラスになってからはさらに彼女の生態が見えてきた。
彼女はほとんどクラスメイトと話すことはなかった授業中はいつも寝ているし、休み時間はどこかへ行ってしまう。
クラスメイトの女子が花山さんに何度か話しかけることはあったが、いつも「あー」とか「りょ」とか2文字返しをするだけだった。
『なんか近寄りがたいよね』
彼女への印象はだいたいこうだ。
そんな彼女に彼氏がいるという噂が流れたのは、誰かが花山明良が男と歩いているのを見た!という発信源のわからない噂からだった。
その噂は本人のいないところで勝手に広まり、彼女の彼氏が特定された。
特定された人物を聞き、クラスメイト、そして僕も唖然としたのを覚えている。
噂は噂の域を出なかったが、先月の事件でほぼ確定となった。
クリスマスイブに2人で学校の体育倉庫にいるなんて、普通の関係ではない。
でも、本当に被害者の1人である意識不明の彼が、花山さんの彼氏だったのだろうか?
なら、どうして花山さんはこんなにも平然としていられるんだろう。
突っ伏した腕の隙間から、隣に座る彼女の横顔を覗く。
相変わらず綺麗な顔立ちだ。
しばらくその横顔を覗き見しているとくるっと花山さんがこちらに顔を向けた。
その時にしっかりと目が合う。
慌てて僕は腕の隙間を閉じる。
まずい。覗き見しているのがバレたかもしれない。気持ち悪がられてしまうかも。
「ねぇ」
鈴のような響く声。花山さんの声だ。
誰かを呼んだ?それとも噂話をするクラスメイト全員に向けての声?
クラスが静寂に包まれているのを背中で感じる。
全員が彼女の次の言葉を待っているのか。
「聞いてんの?」
誰も返事をしない。
「ねぇ」
つんつんと、つむじを細いもので突かれる感覚を味わった。
え?
「みなとくん?」
聞き間違えだろうか。
花山さんの声で発されるはずのない名前が呼ばれた。
僕の名前だ。
一気に背中に冷や汗をかく。
シーンとした教室でクラスメイトの視線が僕の背中に集まっているのを感じる。
そっと顔を上げると目の前に、花山さんの綺麗なお顔があった。
「はい」
その一言とともに、花山さんが僕に向かって長細い菓子を一本差し出した。
周りのクラスメイトたちにその光景をガン見されている。
「ポリッツ欲しかったんじゃないの?」
花山さんは不思議そうに首を傾げた。
「あ、ありがとう」
そう言って差し出されたポリッツを受け取りかじってみた。
水分が一気に引いた口内に塩味が沁みた。
花山さんは満足気にこちらをみてニコニコしている。
やっぱり変わった人だ。
「……どうして僕の名前知ってるの?」
おそるおそるそう尋ねると、花山さんはポカーンと口を開けたまま首を傾げ、何かを考えはじめた。
「隣の席だから……?」
なんとか捻り出したような答えだった。
まぁ、隣の席の生徒の名前ぐらい普通の生徒なら知ってて当然だろう。
だけど、あの花山さんが隣の席の生徒の名前をきちんと覚えているというのが僕は意外だった。
花山さんは、僕の顔をジッとみている。
クラスメイトの目もジッと僕を見ている。
すごく居心地が悪い。
「あ、ちょっと飲み物買ってくるね」
そう言って、僕は素早く席を立ち教室を後にした。
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