【14】黒い召喚の門
白い毛に葉っぱをつけた兎は、ブゥブゥと小さな鳴き声をあげている。
すると泣きベソをかいていたのが嘘のように、ロドルフはパッと顔を明るくした。
「わっ、かわいい……! 兎さん、ですね……! ボク、初めて見ました……。知らなかったです、兎さんって鳴くんですね……?」
「兎とて生き物だ、おまえさんのようにピィピィ鳴くだろう。しかし、こいつはただの兎ではなく、〈聖獣〉だな」
口にしながら、ハーヴェイは兎の〈聖獣〉に向かってそろそろと距離を詰めていく。
「ぴぃ、ぴぎゃ!」
そのとき、ハーヴェイの頭の上にいた小鳥の〈聖獣〉がけたたましく鳴くと、彼の頭上を飛び回り始めた。
「わっ! これっ、おまえさん、急に暴れるんじゃない!」
小鳥の〈聖獣〉は錯乱状態にあるのか、止めようとするハーヴェイの頭をつつき始める。
「あわわわわわわ、やめっ、やめてください小鳥さんッ! 我が君が、ハゲちゃうッ、ハゲちゃいますからぁ……!」
同じく錯乱したロドルフが小鳥の〈聖獣〉を捕まえようと躍起になり、ハーヴェイと揉みくちゃになる。
「ロドルフ、重い、こっ腰がっ……」
「す、すみません、我が君! あっ、いやっ、小鳥さん、つ、つつかないで、ください! ひゃっ、アダダダダダ……」
そうこうしているうちに、今度は小鳥がロドルフをつつき始めた。
ハーヴェイを下敷きにしたロドルフは、小鳥に負けじの声量で悲鳴をあげる。
ひどい大惨事である。護衛の召喚術師二人は、呆れ顔で遠巻きに見守っていた。
ウルリカも巻き込まれてはごめんだとばかりに距離を取り静観していたが――。
(……って、騒がしくしたら!)
ウルリカは兎の〈聖獣〉に手を伸ばす――が、彼は突然始まった乱闘にビクリ、と脅えるように身を震わせると、ぽってりとした姿を翻し、再び茂みに隠れてしまった。
「あっ、待って!」
ウルリカは慌てて兎の〈聖獣〉の後を追いかけた。
「! 待て、ウルリカ! ひとりで行くではない!」
背後からハーヴェイの焦り声で止められる。
しかし、小鳥を相手に翻弄される彼らを待っていたら、ようやく見つけた〈聖獣〉を見失ってしまう。
(ど、どんくさそうに見えて、あの子、意外と素早いじゃないのっ)
ハーヴェイの制止の声を振り切り、ウルリカは獣道を全速力で駆けた。
枝にひっかかったのか、制服の布地がビリリ、と裂ける嫌な音が聞こえて、ロドルフではないが泣きたくなる。
(あとっ、すこしっ…………!)
ウルリカは目の前に迫った兎の〈聖獣〉に手を伸ばす。
「やっ……! つ、捕まえたぁっ!」
ウルリカは兎の〈聖獣〉の首根っこを、猫を捕まえるように掴むと抱きあげた。
ウルリカの胸中に拘束されながら、それでもなお逃げようともがいている。
ああもう、と悪態をつきながらウルリカは兎の〈聖獣〉を撫でて、懸命に宥めた。
「ちょっと、あんた、暴れないでよ――」
「ブゥ、ブゥ……」
暴れる兎の〈聖獣〉はひどく脅えている。
人間に慣れていないためだろうか。しかし、その脅え方は尋常ではない。
それはまるで、何かの強大な力に、恐れるように。
ウルリカはぞわり、と肌が泡立つ感覚を覚えた。
心臓がきゅう、と何かに捕まれるような、得も言われぬ不安が湧き上がる。
(……何かが、いる?)
ウルリカは生い茂る木々に、ぐるりと視線を巡らせた。
ザア、と葉を揺らす風の音でさえ、何か不吉なもののように感じられる。
ウルリカは兎の〈聖獣〉を強く抱きすくめた。兎の〈聖獣〉は暴れるのをやめて、ウルリカにしがみついてはブルブルと躰を震わせていた。
ウルリカはゴクリと生唾を飲み込む。
(ハーヴィおじいちゃんたちのところに、急いで、戻らないと…………)
ここにいては危険だ。
「――う、ぁ……」
道を戻ろうとしたウルリカの耳に、かすかな人の悲鳴のような音が届く。
ロドルフの声とは違う。だって、声の元が逆方向だ。
心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
今すぐに、逃げないと。危険だ。
(でも……もし、人が襲われていたら?)
〈雪の獣〉の災禍で、山間の村人たちは覚めない眠りについた。
例外はウルリカと――そして命を失ったウルリカの祖父。
ウルリカの祖父は獣に殺された。
祖父の遺体をウルリカは目にしていない。惨たらしい殺され方をしたのだと、とエリオットが教えてくれた。
(あのとき、魔導兵団が早く村に辿り着いていれば……。おじいちゃんの命は、助かっていたかもしれない)
ウルリカは唇を噛みしめる。
もし、ウルリカがここで勇気を出さなければ。誰かの大切な人が殺されてしまうかもしれない。
そう思えば、ほんの少しだけ恐怖が薄れた。
「……兎。あんたは、逃げなさい」
ウルリカは地に片膝をついて、兎の〈聖獣〉を降ろした。それから、逃げるように促す。
ルビーのように赤い瞳が、ウルリカをじっと見つめかえす。
何だか都合よく、「逃げよう」と懸命に訴えかけているようにも思えた。
しかし彼は、ウルリカが呼び出した獣ではない。ウルリカの「逃げてほしい」という言葉の意味も、理解できていないだろう。
ウルリカは彼の柔らかな毛皮をやさしく撫でると、立ち上がる。
兎の〈聖獣〉が来た道を走るのを見届けて、ウルリカはなるべく音を立てないように、悲鳴が聞こえたと思しき先に足を進める。
木々の隙間の奥は、ぐるりと円を描くように開けた土地となっていた。ウルリカは大きな木の幹に姿を隠すと、そっと様子を窺った。
(誰もいない……? いいえ、違うわ)
悲鳴が聞こえる。泣き声が聞こえる。
(うっ……頭が、痛いっ……!)
ウルリカはその場にくずおれる。
急に、頭が割れるように痛み出し、とてもではないが立ってはいられなかったからだ。
頭の中をたくさんの声が駆け巡る。
――オウ。モトメル。コロセ。ウバエ。ナキガラ。オエ。イヤダ。コドク。オウノコ……。
(うるさい、うるさい、うるさい……!)
ウルリカは胸元をぎゅっと掴む。苦しい。息ができない。
でも。
助けを求める、声が聞こえるのだ。
「あ、ああああああああああああああああああああ!」
苦しみから解放されたくて、ウルリカは空に向かって叫んだ。
まるで、獣の咆哮のように。
そしてそれをきっかけにするように。
『それ』は現れた。
『それ』は門だ。
表層(こちらがわ)と異層(あちらがわ)を結ぶ、出入り口。
空中に、ジワジワと黒い縁取りが滲み浮かぶのを、ウルリカは息を切らしながら、茫然を見つめた。
(う、嘘でしょ……? これって、まさか、〈召喚の門〉、なの……?)
黒い縁取りを塗りつぶすように、黒い線が上から下へ。下から上へ。左から右へ。右から左へ――。目にも止まらぬ速さで交差していく。
大人ひとり分が収まる程度の黒い縦長の長方形が完成したとき、青く光る線が紋様を彩り始めた。
それは幾何学的に美しく、一方で忌まわしき呪いのように禍々しい。
どこか生き物めいているそれは、完成とともに強く輝いた。
最後に取手が生成されると、それはひとりでに開き始める。
ウルリカは目に映る光景が、とてもではないが信じられなかった。
(あたし、じゃない。だって、召喚の陣、描いてない)
普通、〈召喚の門〉を開くためには、召喚の陣を用意する必要がある。
(確か、自然に発生した〈召喚の門〉は光らない……って聞いたわ。青い紋様が飾る扉は、召喚術師によってつくられた証左。ってことは、どこかに召喚術師が身を潜めている? でも……『黒い扉』だなんて)
ウルリカは何度も瞬きを繰り返す。しかし、目の前の扉の色は一向に変わらない。
(『黒い扉』なんて、初めて。見たことも聞いたこともない……。あんなに、禍々しいもの……存在するっていうの?)
ウルリカが疑っている間にも、『黒い扉』は開いていく。あまりの衝撃に、術者や繋がった異層の名を確かめることが、頭からすっぽりと抜け落ちていた。
『黒い扉』が完全に開いたとき、ウルリカは思わず息を止める。
暗く、暗く、どこまでも暗い。
そこから飛び出したのは、幼いこどもの〈聖獣〉だった。
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