Are you ready?

「ただいま」

誰が待つわけでもない静かな部屋に今日も美波は挨拶をする。当然返事など返ってくるはずもなく、声だけが暗闇に溶けていった。

「マジさぶすぎ」

シンと冷たい空気が部屋に篭もり、壁や天井、床に家具と四方八方あらゆる箇所から冷気が放たれているようにすら感じられた。単に部屋の気温が低いというだけなのに、いつもこの部屋にはもの寂しい静けさが漂っている。

リビングの明かりを視認せずにつけ、間髪入れず暖房を入れる。

明かりの灯された部屋は何も変わらない見慣れたいつもの部屋。存在感のあるシングルベットにマグカップが置きっぱなしの木目調のローテーブル、液タブが鎮座するパソコンデスク、床に平積みした衣服。概ね一般的な一人暮らしの学生が住まう6畳一間のワンルーム。

ただ、パソコンデスクに液タブが置かれているのは流石に一般的ではなかった。

この子液タブは美波に無くてはならない大切な存在だけど、そのせいでパソコンデスクは彼の独壇場となってしまったことをデスク端に追いやられたキーボードがその佇まいで教えてくれている。

「どう見ても学生の財力で借りられる部屋に置けるサイズの液タブじゃないな、これ」と、液タブを買った日から見る度に毎回呆れつつ、美波は着たままのダウンジャケットを脱いで休まることなくシャワーを浴びる準備を始めた。既に夕飯は研究室で済ませてきたので、今日残されたタスクはシャワーを浴びるだけ。

それが済めば、やっと自由時間だ。


『原稿の進捗どう笑?』

『死んでる。ムリ、終わってる』

パソコンを起動させながら、美波はシャワー中に溜まっていたLINEを片手で返していく。相手は高校の同級生で今でもオタク仲間の東雲有栖。陽気でフランクな彼女の性格のことだから、ニヤニヤしながら文章打ってきたんだろう。薄笑いしながらスマホを操作する有栖の姿が容易く脳裏に浮かび上がってきた。

それで彼女に訊かれた進捗を率直に表すと、「ネーム?ペン塗り?〆切?何それ全部食べれるの?」って感じ。要するに何も進んでいないってこと。

流れ作業で立ち上げたソフトに表示されたネームには、前回作業時のメモが残されていた。きっとこれを書いた人は意識が混濁するほど眠たいながらも必死に書き残したことが一目見て伝わってくる。

それは文字と呼ぶにはあまりにも歪な形をしており、もはや意味あり気に繋がってる線の集まりに過ぎなかった。

なんて書いてあるか1mmもわからない。

ダイニングメッセージならぬ、スリーピングメッセージである。

「一から考え直すかぁ……」

美波は手の甲にベージュのヘアターバンでむき出しとなった額を落とし、溜め息を吐いた。

やっぱり、今年の冬コミ参加は無謀すぎた。

冬コミに応募をしていなければ、私の日常も精神もここまで追い込まれることはなかった。一人暮らしの学生だから土日は基本バイトが入ってるし、最近は修論に加えて想定外のポスター発表の準備にも追われている。結局、まともな作業が出来るのは夜中だけ。こんな状況で慢性的な寝不足を回避する術があるわけもなかった。

最終的には寝不足から来る不安定な精神状態が頻発し、その影響で〆切に対する焦燥が徹夜を増加させていく。美波の現状は呆れるほど、どうしようもない負のスパイラルに陥っていた。

悲惨な現状に打ちひしがれていた頃、テーブルが規則的なバイブレーション音を反響し始めた。

相手はさっきまで連絡を取っていた有栖だった。

「もしもし?」

「もしもし〜?元気してる?」

「そんなわけないでしょ」

「だと思った。そろそろそんな時期かなあって思ったから」

夜遅くだと言うのにも関わらず、有栖の声は電話越しでも伝わるほど相手に笑顔と元気を届けるような陽気な声であった。

「なにそれ」

あたかも私の事を手に取るように分かっていますと言わんばかりの発言に、思わず美波は微笑をしてしまう。

「てか、今はなにしてるの?」

「ん、私?今、夕飯食べながら今季のアニメ消化しているところ。」

「この時間に夕飯って。やっぱ社会人ってやばいわ。っで、なに見てるの?」

「恩師の子の5話、ちょうど面白くなり始めたところ」

「それ、2話で止まってるんだけど」

「せめて3話までは見ようよ」

「研究が忙しすぎて見る暇がなかったんだって。後期からはTAも入ったし。」

考えただけでも嫌気がさしてくる辛い日々が脳内に蘇ってくる。実験経過が上手くいかないのに1日の大半以上がTAで終わっていく。自身の研究時間を確保するためにも、週7日一昼夜を欠くことなく研究室に通い詰めることになった。

「もしかしなくても、私より忙しいでしょ?」

「それはない」

美波はキッパリと否定した。

「そうかなぁ。それで、今の進捗はどうなの?流石にネームぐらいは終わってるでしょ」

「え、なんのこと?」

「.........マジ?」

さっきまで陽気に滔々と話していたのに私の進捗を聞いた途端、有栖は何拍かの間を置いてからお世辞抜きの声で心配し始めた。

「だから言ったじゃん。全然、終わってないって」

既に言ってた事をあたかも初耳のような反応で返してきたから、自然と私の語気が強くなっていた。

「ごめん、ごめんって。確かにそれはほんとにやばいね」

「だから終わってるって言ったんじゃん。それで、私はどうしたらいいと思う?」

ネームを書けばとりあえず事は前進する。しかし、美波にとってそれが現状の根本的な解決策のようには思えなかった。

「とりあえず今回題材にした青の記憶のアニメでも見れば?ちょっと見れば創作意欲の一つや二つぐらい、美波なら湧いてくるでしょ」

彼女はネームを書けば?なんて誰もが言えて無責任なことを言うのではなく、創作を苦労を知る人、美波のオタ友として痒いところに手を伸ばしたアドバイスをしてくれた。

「それが次善策よね......ちょっとアニメ見るわ」

「じゃあその間に私はお風呂に入ってきます〜」

電話は互いに繋いだまま、美波と有栖は各々の時間を過ごし始めた。


「やっほ〜。今どこまで進んだ?」

風呂上がりの湿って気の抜けた有栖の声が小さく聞こえてきた。

「今ちょうど優香が先生に告白したシーン」

「いいとこまで見たじゃん。どう?いい感じのインスピレーション得られた?」

「やっぱ最高に良かった」

「それは何より。で?手応えはあるの?」

「原作が神ってことがよく分かったね」

ほんと、この作品に出会えた私は幸せ者です。

「つまり、目ぼしい収穫はなかったのね」

有栖は呆れ半分、笑い半分って感じで語りかけてくる。

「収穫はあったけど、結局自分が描きたいものを描くには考えなきゃいけないことが山積みだなって。やっぱ、今年の冬コミは見送るべきだった」

創作が暗礁に乗り上げる度、夏の選択に対する後悔が何度でも脳裏に蘇る。今更、喚こうが嘆こうが状況は何も変わらない。そんな単純明確なことはわかっている。でも、人が合理的選択だけを選び続けられるほど強く賢い生き物ではないことも美波はわかっていた。

「そんなの百も承知で申し込んでたでしょ。“修論がある中でサークル出すのは流石に厳しいでしょっ”て私、何度も言ってたからね。そしたら、美波なんて言ったか覚えている?」

不意に出題される記憶力テスト。問題は私の冬コミ参加に対する私の意気込み。その答えの発言者である私は圧倒的アドバンテージを持っているが、あと一才年を取ったら四捨五入でアラサーの記憶力なんて何の頼りにもならなかった。

「どうせ私のことだから、『社会人になったら当分サークル参加する暇なんてないから学生最後の思い出に参加する』、とかは言ったような気がするけど。」

私が言いそうな当たり障りもない、なんかそれっぽい事を何となく答えにしておく。

「それと合わせてもう一つ良いこと言ってたよ」

「言ってたっけ?」

「言ってた」

頭をパカっと開けて脳内を懐中電灯片手に隅々まで捜索しても、答えが見つかる気配はなさそうだった。

「ごめん、思い出せない」

「え〜。私がコミケに参加するのは私が私でいるためって言ってたじゃん。」

さすがにそれは言ってないような気がすると、朧げな記憶を根拠とした自信があった。

「好きな事を書かない私は私じゃないみたいなことは言ったような気がしなくもないけど」

「とにかく、美波にとって創作は美波を形取る大切な趣味なんでしょ?だったらそう難しく考えず、心に秘めた創作欲に従って楽しめばきっといい作品ができるって」

「そうかもだけど.......。それじゃあ、なんか違うのよね」

「さすが、黒字サークル。高いレベルを求めてくるわ」

有栖は煽り口調であるが、その声には敬服の念が込められているように感じた。

「別にそんなんじゃないから。なんか好きって気持ちだけが一人歩きした自分の作品に納得がいってないだけ。あと累計で見たら全然赤字サークルだから。」

「いや、黒字になるサークルって全サークルの4割ぐらいなんでしょ。さすがの人気サークルだよね」

「はいはい、そんな人気サークルも今や参加の危機ですぅ。」

美波は拗ねた口調で現状を自嘲する。

でも実際問題にこのまま当日を迎えれば、スペースにはパイプ椅子だけが置かれている状態になってしまう。それだけは私が許さない。

「逆にコミケに余裕持って脱稿してるサークルの方が少ないような気がするけど」

有栖.........流石にそれは世のサークル主様に失礼じゃないかなぁ...?

「ソンアコトナイヨキット」

「ソンアコトアルヨキット」

軽口を叩きながらも、美波の頭の中にはネームの構想が横綱のようにどっしりと居座り続けていた。それは可もなく不可もない構想であり、むしろ下作に近い気すらした。不完全燃焼で消化不良もいいところ。いいネームが降ってきた時なら、こんな構想を一蹴したに違いなかった。それでも、拙く陳腐で形のない発想に手を伸ばす。朧雲を掴むような行為でも、長考に甘えて手を止め続けるよりはずっとまし。美波は藁にもすがる思いで形のない構想に輪郭を与えていく。きっとこの先に雲を掴める瞬間が必ず来ると信じて。


ダラダラとどうでもよくもどうでもよくない会話を続けながら、美波はネームを書き上げていった。ネームと会話の同時並行、頭の並列処理は想像以上にカロリーを使っていった。と言っても、9割以上はネームにカロリーを持ってかれているんだろうけど......。

「お腹すいたぁ」

「夜ご飯何食べたの?」

「サンドイッチとカップ麺」

「まあまあ食べてるじゃん」

「お昼がカロリーメイトだけだったからお腹空いてんの」

研究は体を動かさない代わりに頭をずっと動かすため、想像以上に体力を消費していく。美波のお昼ご飯はカロリーメイト1箱で終わっていたので、サンドイッチだけを夜ご飯にしたら色々と栄養が不足しすぎていた。

「それはそれはストイックなことを。美波って今ダイエット中だっけ?」

「別にダイエットはしてないけど食べる量ぐらい、いつも気にするでしょ」

「まぁね〜。体重が増えるのなんて一瞬なのに、減る時はなんであんな時間かかるの?面倒くさい男並に別れてくれない。」

「もしかして、また変な男に捕まった?」

「あの件以降、当分恋愛はする気がないので」

「とか言って、年明けにでも別の男を捕まえてくるんだろけど」

「もうホントに当分いい。って、もうこんな時間じゃん。」

有栖の言葉に誘われて時間を確認すれば、時刻は深夜1時14分。

「明日も仕事だし、私は寝るわ」

「わざわざ電話してくれてありがとう。お陰で元気出た」

電話をかけてくれなければ、私はネームなんて早々に諦めて布団で陰陰とスマホをいじっていたに違いなかった。それにこの手の苦悩を単なる友達には易々と相談することができないから、貴重なガス抜きの機会にもなっていた。本当に有栖さまさまだ。

「それは何より、また困ったら連絡してね」

「私が連絡する前にどうせ連絡してくれるでしょ」

「それはどうかわからんよ〜。ほにゃね」

おどけた声を最後に残し、私の部屋はエアコンの駆動音だけが聞こえる物寂しい静かな部屋に戻った。

作業状況もタイミングが良く、美波は一旦完成したネームを見返してみることにした。まだまだつぎはぎのパッチワーク状態だが、物語のアウトラインを確認するには申し分ない。苦渋の思いで作り上げたネームが液晶の中で川の流れのように流れていく。それは時に激流のように勢いよく、時に清水のように緩やかに。

美波は画面と寸分だけ間を取り、阿吽の睨みの眼差しでネームと対峙していた。

いいコマ割り。テンポわるっ。何この描写?。優香の魅力出てるよ!この描写いる?何この展開。

脳内編集長:片瀬美波がそのクオリティを厳しく精査していく。彼女の作品において設定崩壊、原作無視、整合性の取れない展開は禁忌だ。それが二次創作を行う上で払うべき作者への最低限の敬意であり、クリエイターとしての矜持。

彼女はいわゆるそういうタイプのクリエイターであった。

一通りネームを確認した後、美波はすぐに修正に取り掛かった。

「今の私ならもっと彼女を魅力的に出来る、もっと可愛く描ける、もっと展開を面白く出来る」心の中の私が威勢よくそう叫ぶ。

創作の悪魔に取り憑かれた美波は止まる事を知らずに筆を動かしていく。思考したその瞬間、既に筆が動いている感覚。脳内風景が寸分も違わず原稿にトレースされていく感覚。創造全てが現実に産み落とされていく感覚。クリエイターとして最高にハイな状態。

片瀬美波の心はクリエイター片瀬美波に酔いしれていた。


「さっっむっ」

狂気的な創作熱を冷ましたのは、ユニットバスに溜まった冷えた空気であった。張りつくような冷気に身体の芯まで冷え切ってしまいそうになる。飛び出すような勢いという表現ではなく、本当に飛び出す勢いで美波はトイレを後にした。

暖房の効いた廊下に戻れば、集中して忘れていた空腹もパッチリと目を覚ましていることに気づく。正確な時刻はわからないが、恐らく今は草木も眠る丑三つ時。普通は誰もが眠りに着いているはずだが、私の睡魔は創作熱という厄介な熱病に冒されてしまっていた。

まだまだここから長期戦に突入しそうな予感。

美波は創作の邪魔となる食欲を鎮めるためにも、何も入ってないであろう冷蔵庫を開けた。一縷の望みに希望を賭けたものの、やっぱり冷蔵庫の中はがらんどう。自炊をあまりしない美波の冷蔵庫に何か食べられるものが入ってる方が珍しかった。けれど、冷蔵庫には思わぬ住人がいた。

「お昼ぶりね.......」

冷蔵庫の深奥に、ふくよかな体付きのゼリー飲料が自重に耐えきれずにごろんと寝転んでいた。相対的に大きなロゴとその背景には白色のライン、英語の羅列が目立つパッケージデザイン、ブロックタイプとは異なるカラーリングのアイコニックな黄色。正体がゼリータイプのカロリーメイトであることが一目でわかる。

多分、今年の秋に朝ご飯の代わりとして大量買いした時の余りだ。

にしても、1日に2食もカロリーメイトを食べることになるとは.......。

流石の美波も苦笑する。

それでも、今この瞬間にでも空っぽな胃袋に何かを入れたい美波にとって、彼の存在は非常に頼もしかった。

思わぬ助っ人を味方に付け、美波は深夜とは思えない明るいリビングに戻ってくる。

一旦カロリーメイトをパソコンデスクに置き、凝り固まった体をストレッチでほぐしていく。体全体を伸ばしきれない不恰好なストレッチでも、体のいたるところから音が鳴った。

気持ち軽くなった身体で、美波はもう一度液タブと対面した。

さっきまでの狂乱じみた創作熱は今や理性の支配下に置かれている。けど、溢れ出る創作熱に変わりはない。挑戦したいコマ割り、心惹かれる掛け合い、誰もが萌える表情。作品に落とし込みたい要素が無限に湧き出てくる。

創作は最高に自由な自己表現だ。無数のスポットライトが私だけを照らす広大な舞台上で、自分の全てを自由に表現できる。美波にとって創作とは推しへの愛情表現だけでなく、身も心も全て曝け出して感性や想いを自由に表現できる唯一無二の活動であった。故に、彼女は自分のありったけをこの作品にぶつけていく。

全てをうまく表現できなくてもどかしい時があるからこそ、渾身の表現を完成させた時が何よりも嬉しい。

力を出し切れずに終わることがあるからこそ、自分の全てを注ぎ込めた作品に自信が持てる。

振り返ってもっと良い表現があったと悔しがれるからこそ、次の作品こそはと前を向ける。

ペンタブの乾いた掠れ音だけが聞こえる凪の世界で、心に生やした長く大きな純白の翼を力強くはためかせる。

カロリーメイトの開封音が部屋に響き渡り、はち切れんばかりの豊満な体が瞬く間に骨と皮だけに変わっていく。


準備はいい?

私は自分の心に問いかけた。


この素晴らしく自由な舞台上で、私は誰よりも私らしく筆を躍らせていく。

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