第2話


五年後、皐月は高二になっていた。野球は今も続けている。中学に入った時、成長期が来て、小学生の皐月とは比べようのないくらい、背が伸びた。そして、筋肉もつくようになり、野球部らしい風格になった、と思う。


坊主頭は今も続けている。皐月のトレードマークというか、なんだろう。後ろ姿を見てもすぐに、皐月だって分かるように。


そして、蒼の言葉に従うように、皐月はキャッチャーとして、チームを支えるようになった。皐月の通う高校は、毎年甲子園出場する常連高校だ。いわゆる、強豪校である。そんなチームのレギュラーに皐月はいた。幸い、強肩であることが監督の目にかなった。


蒼の存在が幻想になりつつあったある日、皐月のクラスに転校生がやってきた。中途半端な時期だったので、不思議に思っていた。


「綾川蒼」


どくんっ。


急に鼓動が速くなり、胸の奥が熱くなった。‘蒼’。それは、皐月の憧れの人の名前だった。目の前にいる転校生は、皐月の知っている蒼とはかけ離れていた。派手な金髪に、耳に三、四つのピアスを開けており、まぁ、不良みたいな容姿をしていた。


蒼という人物は野球が好きで、綺麗に笑って、短い黒髪をしていた。だが、違った。


蒼だけど、蒼くんじゃない。


皐月はがっかりした。


もし、蒼くんだったら、成長した俺を見せたかった。そして、褒められたかった。


「すげーな!!」


って…。


「綾川はそこの今井の前の席な」


先生の指示に従い、綾川は皐月の目の前の席に座った。野球をやっている皐月よりも逞しい背中だった。


俺よりも身長あるんじゃないか。


皐月はそっと窓を見た。窓に映る綾川の横顔を見つめながら、皐月は蒼を思い出す。目を閉じて、そのまま眠りに落ちる。







綾川は見た目がとてもいいため、すでに周りには人だかりができていた。ほとんどが、女子である。オシャレしていて可愛らしい女子が、顔を赤くして綾川に話しかけている。


…まぁ、男から見てもかっこいいもんな。


そう、心の中で呟く。


この日の朝練は休みで、皐月は目の前に座る綾川の背中を見つめていた。


心のどこかで、綾川が蒼だったら…と信じたかったのだ。


思わず深いため息を吐いた。


「皐月」


皐月を呼ぶ声がしたので、その声のする方向へと目を向けた。


ドアに肩を預け、軽く手を振る、隣のクラスで同じ野球部のピッチャーである、嵐がいた。嵐とは、中一からの友人で、心許せる数少ない友達の一人だ。


席を立ち、嵐のところへ歩いていく。――その時、綾川が目を大きく見開いて、皐月を見ていたことを皐月は知らない。


「どうしたの?なんか用?」


中庭のベンチに腰掛けて、嵐に尋ねる。


「あー、いや。転校生が来たんだろ?」

「?うん」

「気になってな」

「そうだったんだ。イケメンだよね」

「…お前はあの顔が好みなのか?」

「そういうことじゃないけど、男から見てもかっこいいよねっていう話」


今日の嵐はよく喋る。普段は寡黙で、クールな奴なんだけど、今日はなぜかあの転校生のことを気にしているようだった。


「あの転校生さ、お前が小学生の時に知り合ったやつと同じ名前なんだろ?」

「うん。でもね、違う人だと思う」

「そうか」


サァ…と柔らかい風が吹く。皐月の短い前髪をそっと揺らした。


「ねぇ、嵐」

「うん?」

「今年こそは甲子園優勝しようね」


目を大きく見開いた後、口元を上げて、「当たり前だろ」と皐月の頭を撫でた。


皐月は今も蒼の姿を探している。風のように現れ、皐月の心を奪い、風のように消えた少年を―――…。





部活の休憩中で、フェンスの向こうから、何かを探している綾川を見た。誰かを探しているのだろうか?


気になった皐月は綾川に声をかけた。


「綾川。誰を探してるの?」


一瞬だけ、綾川の目が揺れた。哀しいような、嬉しいような、そんな複雑な目をしていた。


「…なんでもねぇ」


綾川はすぐにその場から去った。その後ろ姿がなぜか小さく見えた。だから、思わず、


「ねぇ!野球好き?」


と聞いていた。綾川は目を大きく見開いた後、目を細め、「嫌いだよ」と笑った。

その微笑みがあまりにも蒼くんに似ていたので、鼓動が早くなったのを感じた。


「どうして?」

「…野球のせいで、大切なものを失ったからだ」


そう話す綾川の顔は淋しそうで。


「もういいだろ」

「そっか。俺は野球が好きだよ」

「じゃなきゃ、野球部に入らないだろ」

「そうなんだけど。俺の場合は、野球のおかげで大切な人に出会えたんだ」

「…大切な人?」


眉間にシワを寄せて、綾川はその言葉を繰り返した。


「うん。その人のおかげで今の俺があるんだ。二度と会えないかもしれない。でも、もし会えたら、お礼を言いたいんだ」


「ありがとう」と伝えたい。


綾川は何も言わなかった。


「皐月」

「あ、行かないと」


皐月は綾川に「話を聞いてくれてありがと」と微笑み、嵐の元へ走っていった。その背中を見つめ、綾川は小さな声で「オレは会いたくなかった」と呟いた。





「さっきの、転校生か?」


アップしながら、嵐がそう尋ねてきた。


「うん。綾川」

「なんの話してたんだ?」

「野球」

「綾川が野球の話?」

「うん。嫌いだって言ってたよ」

「ふーん」


やけに嵐は綾川のことを気にしている。


「俺ね、昔は野球が好きじゃなかったんだ」


皐月の告白に嵐は目を大きく見開くが、すぐに戻った。そしてそのまま、耳を傾けた。


「今よりもチビだったし、下手だった。なんのために野球やってるんだろうって、ずっと思ってた」


皐月の横顔を眺める。その表情は懐かしむような。愛しいような。


「でも、ある少年のおかげで野球が好きになったんだ。俺が今、キャッチャーやってるのも、その少年のアドバイスがあったからなんだ」


目を閉じると今でも鮮明に思い出す。蒼の笑顔。声。温もり。その全てを覚えている。


「皐月は、そいつのこと好きだったのか?」


真剣な眼差しで嵐はそう尋ねた。その質問に皐月は笑ってみせた。


「そうだったかもしれないね」


その微笑みはとても美しく、儚げで、今にも消えてしまいそうだった。思わず、嵐はキャッチボールを止め、皐月の元へ歩いて行った。そして、そのまま、皐月の腕を掴んだ。


「どうしたの?」

「…いや」


こうでもしないと、お前が消えてしまうんじゃないか。


そんなこと、皐月に言えるはずがなかった。


「なんとなくだ」


さっきから、様子が変な嵐に皐月は笑い声を上げた。


「変なの、嵐。そんな心配しなくても、俺は野球が好きだし、楽しいよ。あの少年はもういない。今は嵐のおかげで楽しいよ」


嵐は目を綻ばせ、「そうかよ」と言った。





綾川が転校してきて、一ヶ月が過ぎた。綾川は相変わらず、モテていて。いつも不機嫌そうにしていて。


綾川と話したのはあの日だけだ。あの日の綾川は思ったよりも話しやすくて。


なぜ、綾川は野球が嫌いになったのだろう。その理由は分からないが、綾川も野球をやっていたということだけは分かった。


蒼くんは今、どう生きているのかな?今も野球をやってるかな?やってたら、もしかしたら、大会とかで会えるかな?


目の前に座る綾川の背中を見つめる。そして、綾川の背中にそっと触れてみせた。


振り返る綾川と目が合う。


あ、緑のかかった綺麗な黒い目。


綾川の綺麗な目が揺れる。


「あ、ごめん。つい…」


背中から手を離すと、その腕を掴まれてしまう。そして、綾川は小さな声で「ふざけんなよ」と囁いた。


綾川にどこか連れられて、着いたのは理科室だった。


「綾川?」


何も言わない綾川。けれど、決して皐月の腕を離そうとはしなかった。皐月もそのまま、振り払わないで、ただ綾川からの返事を待つ。


「…お前は相変わらず、人を疑うことを知らない。なんで、そうお前は純粋なんだよ」

「相変わらず?」


綾川の言葉に皐月は首を傾げた。


「どこかで会った?俺たち」


綾川の目が大きく揺れた。――泣きそうな顔をしていた。


「…お前は覚えてないのかよ。あの日のこと」


それっきり、綾川は何も言わなくなった。そんな彼に、皐月は勝手に思い出話を始めた。


「小学生の頃、不思議な少年に出会ったんだ。その少年は、突然現れて、突然消えた。」


皐月は窓から空を見上げた。


「そう。今日みたいな雲ひとつない青空の日だった。あの頃、俺は野球が好きなのか分からなかった」


綾川は顔を上げた。


「少年のおかげで、俺は野球が楽しくなったし、好きになった。あ、綾川。俺、キャッチャーやってるんだ」


皐月は目を細めて、微笑んだ。


「……そいつの名前は?」


初めて、綾川が口を開けた。皐月はその名前を口にするたびに、鼓動が速くなる。


「“蒼“くん。綾川と同じ名前だね」

「会いたくないのか」

「会いたいよ」


皐月の腕を離したかと思いきゃ、綾川は皐月を強く抱きしめた。太く、たくましい腕の中にすっぽり入ってしまった、皐月の身体。


突然のことに反応できなかった皐月は、「綾川?」と声をかけたが、綾川は何も言わない。ただ、皐月を抱きしめるその腕は震えていた。お互いの体温が混じり合って、心地よい温度になった。


「…オレは、会いたくなかった」


小さな声で溢れた、その言葉。ひどく、悲しそうな顔で綾川はそう告げた。


「そっか」


皐月はその言葉の意図がわからないまま、綾川の背中を優しくさする。


「話したくないんなら、無理に話さなくていいんだよ。誰だって、話したくない過去はある。それを無理に聞き出す権利は誰にもない」


その瞬間、綾川の身体が離れた。そして、そのまま皐月にキスをした。


それはひどく、優しいキスだった。そっと触れるだけのキス。


綾川の緑のかかった黒目には、熱がこもっていた。



何も言わず、綾川は理科室から出て行った。一人取り残された皐月は唇に触れた。皐月の顔が赤くなっていたのは、皐月も知らない。



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会いたくなかった 氷魚 @Koorisakana

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